田《かいた》駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上《かみ》稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連《つらなる》。万里蒼波一|鬨烟家《こうのえんか》みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次《やど》る。市に入て猿猴橋《ゑんこうばし》京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪《じんしよにたへず》。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側《かたはら》なり。)春水|在家《いへにあり》て歓晤。男子賛亦助談。子賛名|襄《のぼる》、俗称|久太郎《ひさたらう》なり。次子竹原へ行て不遇《あはず》。談笑夜半にすぐ。月|升《のぼり》てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。
その四十三
所謂《いはゆる》松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子《せいし》侍読として屡《しば/\》江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守|斉賢《なりかた》である。備後守|重晟《しげあきら》が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側
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