とき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故|不行《ゆかず》して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵《をさ》む。駅長図を披《ひらい》て行行《ゆく/\》委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯|忠直《たゞなほ》(一|白《はく》)再脩せり。此所神祖|御榻《ぎよたふ》の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合《あはず》。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二|堆《たい》あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺《ましう》の古瓦《こぐわ》いづるといへり。江濃《こうのう》両国境を経一里柏原駅。一里半|醒井《さめがゐ》駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里|許《きよ》」
空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎|忠英《たゞひで》、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方《こくようかた》を命ぜられた。曲淵《まがりぶち》甲斐守|景漸《けいぜん》の後を襲《つ》いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。
詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年※[#「隻+隻」、7巻−69−上−14]塚在。※[#「示+駸のつくり」、第4水準2−82−70]氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」
第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後|磨針嶺《すりばりれい》望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃に厭《あき》し故此に来《きたり》湖面滔漫を遠望して胸中の鬱穢《うつくわい》一時消尽せり。時に天曇り月出崎《つきのでさき》竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良
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