ざきしょうちく》の塾に通っていたときに死んだのである。仲平は二十一の春、金子《きんす》十両を父の手から受け取って清武村を立った。そして大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷に着いて、長屋の一間を借りて自炊をしていた。倹約のために大豆を塩と醤油とで煮ておいて、それを飯の菜にしたのを、蔵屋敷では「仲平豆」と名づけた。同じ長屋に住むものが、あれでは体が続くまいと気づかって、酒を飲むことを勧めると、仲平は素直に聴き納《い》れて、毎日一合ずつ酒を買った。そして晩になると、その一合入りの徳利を紙撚《こより》で縛って、行燈の火の上に吊るしておく。そして燈火《ともしび》に向って、篠崎の塾から借りて来た本を読んでいるうちに、半夜《はんや》人定まったころ、燈火で尻をあぶられた徳利の口から、蓬々《ほうほう》として蒸気が立ちのぼって来る。仲平は巻《まき》をおいて、徳利の酒をうまそうに飲んで寝るのであった。中《なか》一年おいて、二十三になったとき、故郷の兄文治が死んだ。学殖は弟に劣っていても、才気の鋭い若者であったのに、とかく病気で、とうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃音《ふいん》を得て、すぐに大阪を立って帰った。
前へ
次へ
全27ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング