一郷に伝播《でんぱ》して、誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉《そね》みの交じらぬただの怪訝であった。
婚礼は長倉夫婦の媒妁《ばいしゃく》で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭《まゆ》を破って出た蛾《が》のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢《おおぜい》の若い書生たちの出入りする家で、天晴《あっぱ》れ地歩を占めた夫人になりおおせた。
十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵《しゅくえん》に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。
翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女|須磨子《すまこ》が生まれた。中一年おいた年の七月には、藩の学校が飫肥《おび》に遷《うつ》されることになった。そのつぎの年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂《しんとくどう》の総裁にせられて、三十三になる仲平がその下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削《ゆげ》という人が住まうことになって、
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