心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲《く》み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房《にょうぼう》は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題《さかやき》を剃《そ》って、髪には忠利に拝領した名香|初音《はつね》を焚《た》き込めた。白無垢《しろむく》に白襷《しろだすき》、白鉢巻《しろはちまき》をして、肩に合印《あいじるし》の角取紙《すみとりがみ》をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛《まさもり》で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念《かたみ》である。それに初陣《ういじん》の時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。
手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋《わらじ》の緒《お》を男結《おとこむす》びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。
阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国《おうみのくに》和田に住んだ和田|但馬守
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