を埋めた。あとに残ったのは究竟《くっきょう》の若者ばかりである。弥五兵衛、市太夫、五太夫、七之丞の四人が指図して、障子|襖《ふすま》を取り払った広間に家来を集めて、鉦太鼓《かねたいこ》を鳴らさせ、高声に念仏をさせて夜の明けるのを待った。これは老人や妻子を弔《とむら》うためだとは言ったが、実は下人《げにん》どもに臆病《おくびょう》の念を起させぬ用心であった。

 阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は柄本《つかもと》又七郎、平山三郎の住いであった。
 このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、志岐《しき》の三家の一つである。小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅《ちゅう》せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。
 又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は鎗《やり》が得意で、又七郎も同じ技《わざ》を嗜《たし》むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が上手《じょうず》でもそれがしにはかなうまい」
前へ 次へ
全65ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング