いと言った。家隷は帰って、「しまいの四つだけは聞きましたが、総体の桴数《ばちかず》はわかりません」と言った。橋谷をはじめとして、一座の者が微笑《ほほえ》んだ。橋谷は「最期《さいご》によう笑わせてくれた」と言ってA家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村|甚太夫《じんだゆう》が介錯した。井原は切米《きりまい》三人|扶持《ふち》十石を取っていた。切腹したとき阿部|弥一右衛門《やいちえもん》の家隷林左兵衛が介錯した。田中は阿菊物語《おきくものがたり》を世に残したお菊が孫で、忠利が愛宕山《あたごさん》へ学問に往ったときの幼な友達であった。忠利がそのころ出家しようとしたのを、ひそかに諫《いさ》めたことがある。のちに知行二百石の側役を勤め、算術が達者で用に立った。老年になってからは、君前で頭巾《ずきん》をかむったまま安座することを免《ゆる》されていた。当代に追腹《おいばら》を願っても許されぬので、六月十九日に小脇差《こわきざし》を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は丹後国《たんごのくに》の者で、流浪していたのを三斎公の部屋附き本庄久右衛門《ほんじょうきゅうえもん
前へ 次へ
全65ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング