貞《ときさだ》を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守《まつだいらいずのかみ》、阿部豊後守《あべぶんごのかみ》、阿部対馬守《あべつしまのかみ》の連名の沙汰書《さたしょ》を作らせ、針医|以策《いさく》というものを、京都から下向《げこう》させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門《そがまたざえもん》という侍《さむらい》を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重《ていちょう》をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸《やしき》に添地《そえち》を賜わったり、鷹狩《たかがり》の鶴《つる》を下されたり、ふだん慇懃《いんぎん》を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤《もっと》もである。
 将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の館《やかた》では忠利の病が革《すみや》かになって、とうとう三月十七日|申《さる》の刻に五十六歳で亡《な》くなった。奥方は小笠原《おがさわら》兵部大輔《ひょうぶたゆう》秀政《ひでまさ》の
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