わしくささやいた。
「お待ちなさりませ。殿は今日の総大将じゃ。それがしがお先をいたします」
 徳右衛門は戸をがらりとあけて飛び込んだ。待ち構えていた市太夫の槍に、徳右衛門は右の目をつかれてよろよろと数馬に倒れかかった。
「邪魔じゃ」数馬は徳右衛門を押し退けて進んだ。市太夫、五太夫の槍が左右のひわらをつき抜いた。
 添島九兵衛、野村庄兵衛が続いて駆け込んだ。徳右衛門も痛手に屈せず取って返した。
 このとき裏門を押し破ってはいった高見権右衛門は十文字槍をふるって、阿部の家来どもをつきまくって座敷に来た。千場《ちば》作兵衛も続いて籠《こ》み入った。
 裏表二手のものどもが入り違えて、おめき叫んで衝《つ》いて来る。障子襖は取り払ってあっても、三十畳に足らぬ座敷である。市街戦の惨状が野戦よりはなはだしいと同じ道理で、皿《さら》に盛られた百虫《ひゃくちゅう》の相啖《あいくら》うにもたとえつべく、目も当てられぬありさまである。
 市太夫、五太夫は相手きらわず槍を交えているうち、全身に数えられぬほどの創《きず》を受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻っている。七之丞はいつのまにか倒れている。
 太股《ふともも》をつかれた柄本又七郎が台所に伏していると、高見の手のものが見て、「手をお負《お》いなされたな、お見事じゃ、早うお引きなされい」と言って、奥へ通り抜けた。「引く足があれば、わしも奥へはいるが」と、又七郎は苦々しげに言って歯咬《はが》みをした。そこへ主のあとを慕って入り込んだ家来の一人が駈けつけて、肩にかけて退いた。
 今一人の柄本家の被官《ひかん》天草平九郎というものは、主の退《の》き口《くち》を守って、半弓をもって目にかかる敵を射ていたが、その場で討死した。
 竹内数馬の手では島徳右衛門がまず死んで、ついで小頭添島九兵衛が死んだ。
 高見権右衛門が十文字槍をふるって働く間、半弓を持った小姓はいつも槍脇《やりわき》を詰めて敵を射ていたが、のちには刀を抜いて切って廻った。ふと見れば鉄砲で権右衛門をねらっているものがある。
「あの丸《たま》はわたくしが受け止めます」と言って、小姓が権右衛門の前に立つと、丸が来てあたった。小姓は即死した。竹内の組から抜いて高見につけられた小頭千場作兵衛は重手《おもで》を負って台所に出て、水瓶《みずかめ》の水を呑《の》んだが、そのままそこ
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