やみ》の空が晴れずにいるのである。
障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ燭台《しょくだい》の火はゆらめいている。螢《ほたる》が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びにやったのに、皆よう来てくれた。家中《かちゅう》一般の噂じゃというから、おぬしたちも聞いたに違いない。この弥一右衛門が腹は瓢箪に油を塗って切る腹じゃそうな。それじゃによって、おれは今瓢箪に油を塗って切ろうと思う。どうぞ皆で見届けてくれい」
市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石をもらって別家しているが、中にも市太夫は早くから若殿附きになっていたので、御代替りになって人に羨《うらや》まれる一人である。市太夫が膝《ひざ》を進めた。「なるほど。ようわかりました。実は傍輩《ほうばい》が言うには、弥一右衛門殿は御先代の御遺言で続いて御奉公なさるそうな。親子兄弟相変らず揃《そろ》うてお勤めなさる、めでたいことじゃと言うのでござります。その詞《ことば》が何か意味ありげで歯がゆうござりました」
父弥一右衛門は笑った。「そうであろう。目の先ばかり見える近眼《ちかめ》どもを相手にするな。そこでその死なぬはずのおれが死んだら、お許しのなかったおれの子じゃというて、おぬしたちを侮《あなど》るものもあろう。おれの子に生まれたのは運じゃ。しょうことがない。恥を受けるときは一しょに受けい。兄弟|喧嘩《げんか》をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのをよう見ておけ」
こう言っておいて、弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界《きょうがい》を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。
「兄《あに》き」と二男弥五兵衛が嫡子に言った。「兄弟喧嘩をするなと、お父《と》っさんは言いおいた。それには誰も異存はあるまい。おれは島原で持場が悪うて、知行ももらわずにいるから、これからはおぬしが厄介《やっかい》になるじゃろう。じゃが何事があっても、おぬしが手にたしかな槍《やり》一本はあるというものじゃ。そう思うていてくれい」
「知れたことじゃ。どうなることか知れぬが、おれがもらう知行はおぬしがもらうも同じじゃ」こう言ったぎり権兵衛は腕組みをして顔をしかめた。
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