って、安座《あんざ》して肌《はだ》をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手《さかて》に持って、「お鷹匠衆《たかじょうしゅう》はどうなさりましたな、お犬牽《いぬひ》きは只今《ただいま》参りますぞ」と高声《たかごえ》に言って、一声|快《こころ》よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後《うしろ》から首を打った。
五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々|触組《ふれぐみ》で奉公していた。
忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門|通信《みちのぶ》というものがあった。初めは明石氏《あかしうじ》で、幼名を猪之助《いのすけ》といった。はやくから忠利の側近《そばちか》く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜伽《よとぎ》に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。しかしどうしても忠利は許さない。「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚《みつひさ》に奉公してくれい」と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。
一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご膳《ぜん》を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかというと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。
弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。しかしすることはいつも肯綮《こうけい》にあたっていて、間然すべきところがない。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見る
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