、お前知らずに来たのかい。」
「いゝえ。知りません。だがそれはどうでも好いのです。わたしは只言ひ附けられた用を済ませさへすりやあ好いのです。」
「誰が言ひ附けたのだ。」
「マルヒユスさんです。」
「それは誰だい。」
「今は此世の人ではありません。」
「亡くなつたのかい。」
「きのふの朝おしおきになりました。」
「内の檀那を知つてゐた人かい。」
「いゝえ。知らないのですが、宜しく言つて、そして死んだことを知らせてくれと云ひました。それからこちらでは※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》が物を言ふだらうと云ひました。」
「うん。己はもう物を言つてゐる。」これはルカスが駆け寄つて、老人の手に接吻しながら言つたのである。
「お前檀那の死顔が見たいのかい」と、差配人が問うた。
「なに。それには及びません。ひどくお変になりましたか。」
「うん。ひどくお変になつた。」
「マルヒユスさんも羂《わな》でひどく顔が変ました。頸にひどい痕が附いて。」
「まだ何か言ふことがあるかい。」
「いゝえ。もう往きます。」
「わたしは一しよに往くよ。」これはルカスが優しい声で云つたのである。
もう
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