ね。」
「はい。あの外にはゐません。きのふ一名逃亡しました。」
「逃亡者がありますか。名前は。」
「マルヒユスと云ふ奴です。」
「マルヒユスですか。目の光る、日に焼けた、髪の黒い男ぢやありませんか。」名を聞いて耳を欹《そばだ》てたフロルスは、怜《うれ》しげな声でかう云つた。
「はい。仰やる通の男です。」獄吏は頷いて答へた。
 監獄の門を出た時、フロルスはこれまでになく晴々した気色をしてゐた。子供のやうに饒舌《しやべ》り続けて縁にはまだ暈《くま》のある目が赫いた。
「どうだい。ムンムス爺《ぢゝ》い。あれを見い。こんな長閑《のどか》な空を見たことがあるかい。木の葉や草花がこんなに可哀《かはい》らしく見えたことがあるかい。これからお前と二人でぶら/\歩いて別荘に往かう。己は桜ん坊を食つて、牛乳を牛の乳房から飲まう。そして気楽に日を暮さう。お前田舎の娘を一人世話をしてくれ。枯草や山羊の香のする娘だな。少しは葱臭くても好い。あの※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》のルカスは別荘へは呼ばないで置かう。どうだい。ムンムス爺い。けふのやうに己の元気の好かつた事があるかい。あの雲を見い。丸で春のやうだ。春のやうだ。」

     四

 別荘の居心の好い家を、フロルスは朝嬉しげに出て、街道や小径を遠方まで散歩する。老人の世話をしてくれたゴルゴオは物静な、詞少なな、従順な、澹泊な、小牛の様な娘である。日に焼けた肌をなんの面倒もなく、さつぱりと任せる。留守居をする時は、古い小唄を歌つてゐる。
 無言のルカスは呼ばれぬに主人の跡を慕つて来て、主人の往く所へどこへでも附いて行く。疲れたやうな、穉《をさな》い顔の悲しげな目に喜を湛へてゐる。突然昔の気軽に帰つた主人に、暫くも目を放さぬやうにして、黙つて静に附いて行くのである。
 主人はいつも山の阻道《そばみち》をうろつく。草花の色々に咲いた野に休んで、仰向になつて絶間なく青空を見詰めて、田舎の罪のない唄を歌ふ。そして※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》の童には笛を吹かせる。白い、目映《まばゆ》い程白い雲が、野の上、川の上に静に漂つて、何物をか待つてゐる。
 主人は髭の伸びた、まだ乳汁《ちゝ》の附いてゐる赤い口をしてゴルゴオに接吻する。都の手振は忘れ、葱の香には構はなくなつてゐる。そんな時は無言のルカスが片隅で泣いてゐる。
 一日一日と過ぎて行く。譬へば飾の糸に貫《ぬ》いた花の一輪が、次の一輪と接して続いてゐるやうなものである。
 或暮方の事である。フロルスは暢気に遊び戯れてゐた最中、突然沈鬱な気色になつた。俄に敵に襲はれたやうな態度である。急に咳枯《しやが》れた声でかう云つた。
「どうしたのだらう。どうしてこんなに暗くなつたのだ。牢屋ぢやないか。」
 フロルスは低い寝台《ねだい》の上に身を横へた。壁の方に向いて、黙つて溜息を衝《つ》いた。
 そこへゴルゴオがそつと這入つて来て抱き附いたが、フロルスは顧みずに、押し退けるやうにして云つた。
「お前誰だ。知らない女だ。今は行けない。気を附けろ。錠前の音がすると、番人が目を醒ますぜ。」
 ゴルゴオは黙つて退《の》いた。
 無言のルカスが狗のやうに這ひ寄つて、寝台の縁から垂れてゐる主人の手に接吻した。

     五

 主人の寝部屋の外で転寐《うたゝね》をしてゐる家来共のためには、鬱陶しい夜であつた。無言のルカス丈が黙つておとなしく主人の傍にゐた。夜どほし部屋の中を往つたり返つたりしてゐる主人の足音が聞えた。暁近くなつて、家来共がまどろんだ。
 忽ち空気を切り裂くやうな、叫声が響いた。人の声らしく無い。此世のものでないものが、反響のするやうに「死」と叫んだかと思はれた。
 家来共は躊躇しつゝ戸を敲いた。無言の童が内から戸を開けて入れた。童の顔は、いつもの子とは見えぬ程、恐怖のために変つてゐる。そして童は、つひに物を言つたことの無い口で、あらあらしく「死だ、死だ」と繰り返して云ふ。※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》の物を言ふのを不思議がる暇も無く、家来共は寝台に駆け寄つた。
 フロルスは寝台の上に、項《うなじ》を反らせて、真つ黒になつた顔をして動かずにゐる。ルカスは今離れたばかりと見える寝台に、又駆け寄つて、無言で俯伏《うつぶし》になつた。
 恐怖の使は医師と差配人との許に走らせられた。
 ※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]の童は絶間なく「死だ、死だ」と云ふ詞を反復してゐる。只此詞丈を言ふために物を言ひ出したかと思はれる位である。
 フロルスは項を反らせて、真つ黒になつた顔をして動かずにゐる。手が一本だらりと寝台の縁から垂れてゐる。
 医師が来てフロルスの体を検査した。フロルスは慥
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