しわたしがさうしようと思つたら、わたしは疑も無くその夢を今でも見続けてゐて、例之《たとへ》ば話をしてゐるあなたなんぞを、却つて幻だと思ふでせう。」
「その夢をお話になるには、ひどく興奮なさる虞《おそれ》があるでせうか。」
「なに、なに」と、主人は忙しげに反復して云つて、額に出た玉の汗を拭つた。そして努力して、忘れた事を想ひ出す人のやうに、きれ/″\に話し始めた。話の間に声が叫ぶやうに高くなるかと思へば、又|囁《さゝや》いて聞かせるやうに細くなつた。
「あなたに丈は今話しますが、誰にも言はないやうにして下さい。どうぞ誓言《せいごん》をして下さい。事によつたら却つてそれが本当だかも知れません。わたしは知らないのですが、わたしは人を殺したのです。誤解してはいけませんよ。それはあそこでしたのです。夢の中《うち》です。わたしは逃げ出しました。久しい間方々を迷ひ歩いてゐて木の実を食つてゐました。想つて見れば、山に生えてゐる桜の実でしたよ。それからパンや牛乳を盗みました。牛乳は牧《まき》にゐる牛の乳房からすぐに盗んで飲んだのです。いや。ひどい炎天で、むつとするやうな蒸気が沼から立つてゐました。丁度港の関門を通らうとする時小刀を盗んだと云ふ嫌疑で掴まりました。背の高い、赤毛の商人がわたしを掴まへたのです。人がその男の事をチツスさんと呼んでゐましたよ。わたしは力が脱けたやうで、途方にくれてゐました。赤毛の女が一人ゐて、大声で笑ふ。茶色の毛をした狗が一疋わたしの足元で悲しげに啼いてゐる。そこの往来の石だゝみの上には石竹の花が棄てゝある。武装した兵卒が大勢その前を通り過ぎる。わたしはそこで皆に打たれてゐました。ひどい炎天でしたよ。それから真つ暗な、息の詰まるやうな冷たい処にゐました。あゝ。田畑や、清い泉や、山風の涼しさはどこへ往つたでせう。」
 これまで話して、フロルスは口を閉ぢた。そして力の脱けたやうに項垂《うなだ》れた。
 医師は「お休なさい」と云つて部屋を出て、差配人に主人の容態を話した。無言の童は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて口を開《あ》いて、熱心にそれを聞いてゐた。
 夕方にフロルスは年の寄つた乳母を呼んだ。乳母はフロルスの前にしやがんで、お伽話や、小さい時の話をしてゐたが、それが種切になつてからは、自分の翳《かす》んだ目で見、遠くなつた耳で聞いた事をなんの連絡もなしに話し出した。外套を体にぴつたり巻き附けて、乳母は歯の無い口からしゆつ/\と云ふやうな声を出して、こんな事を言つた。
「坊つちやん。二三日前の事でございますがね。港の関門の所で人殺しを見ましたよ。ですけれど、こはい顔はしてゐませんでした。ほんに光つた目をしてゐました。髪は黒うございました。丸で小僧つ子のやうな男でございました。わたしの亭主の兄弟で、商売をしてゐますチツスさんが掴まへたのでございます。」
 フロルスは一声叫んで、婆あさんの臂を攫んだ。
「こら。廃せ。すぐに帰つてくれ。チツスだと。お前チツスと云つたな。魔女奴が。」
 叫声に驚かされて無言の童が駈け附けた。

     三

 数日間煩悶が続いた。病人は度々「もう我慢が出来ない、己の力に余る」と、繰り返して云つた。陰密に心髄に食ひ込んでゐる苦痛のために、今までも蒼かつた顔は土色になつた。目の縁には黒い暈《くま》が出来た。声は干からびた喉から出るやうに聞える。一夜も穏に眠らない。その絶間の無い恐怖は、徒《いたづら》に無言の童を悩ますのである。
 病人は或朝日の出る前に起きた。そしてどこかへ往く気と見えて、帽と外套とを出させた。老人の奴隷が用心して何も問はずにゐると、主人は奴隷の目を見て、無言の問に答へた。
「お前附いて来るのだ。」
 主人はいつもの楽な、軽らかな足取で歩く。窪んだ頬の上に薔薇色の紅《くれなゐ》が潮《さ》してゐる。多くの町や広場を通り過ぎて、主従は大ぶ家を遠ざかつた。併し老人には主人がどこへ往くのだか分からない。そのうち主人が目的地に達したやうに足を止《とゞ》めたので、老人が決心して問うた。
「檀那様。ここへお這入なさいますか。」
「さうだ。」
 主人の声は苦労の無ささうな声である。二人は監獄の門に入つた。
 財産があり、身分のあるフロルスであるから、獄吏は別に面倒な事も言はずに、客の要求を容れた。勿論心附けは辞退せずに受けた。フロルスは頃日《このごろ》逃亡した奴隷が監獄の中に入れられてゐはせぬか、捜して見たいと要求したのである。
 フロルスは隅々まで気を配つて、しかも足早に監獄を見て廻つて、最後の地下室をも剰《あま》さなかつた。その目附は馴染のある場所を見て廻るやうな目附であつた。最後にフロルスは詞せはしく問うた。
「囚徒は皆内にゐるのですね。今見たのより外にはゐないのです
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