フロルスと賊と
クスミン Mikhail Alekseevich Kuzmin
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)赤光《あかびかり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|園《その》に出た。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もぢや/\した
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 表の人物
Aemilius Florus 主人
Mummus 老いたる奴隷
Lukas 無言の童
Gorgo 田舎娘
Calpurnia 主人の友の妻
老いたる乳母
差配人
医師
獄吏
跣足の老人
従者等

 裏の人物
Malchus 賊
Titus 商人
赤毛の女
兵卒等
[#ここで字下げ終わり]

     一

 エミリウス・フロルスは同じ赤光《あかびかり》のする向側の石垣まで行くと、きつと踵《くびす》を旋《めぐ》らして、蒼くなつてゐる顔を劇《はげ》しくこちらへ振り向ける。そしていつもの軽《かろ》らかな足取と違つた地響のする歩き振をして返つて来る。年の寄つた奴隷と物を言はぬ童《わらべ》とが土の上にすわつてゐて主人の足音のする度に身を竦《すく》める。そして主人の劇しく身を翻《ひるがへ》して引き返す時、その着てゐる青い着物の裾で払はれて驚いて目を挙げる。
 往つたり返つたりしたのに草臥《くたび》れたらしく、主人は老人に暇を取らせた。家政の報告などは聞きたくないと云ふことを知らせるには、只目を瞑《ねむ》つて頭を掉《ふ》つたのである。主人が座に就くと童は這ひ寄つて、膝に接吻して主人と一目、目を見合せようとした。フロルスは口笛を吹いて大きい毛のもぢや/\した狗を呼んだ。主人と童と狗とが又|園《その》に出た。そして二人と狗とが前後に続いて往つたり来たりし始めた。先頭には主人が立つて、黙つて大股に歩く。すぐその跡を無言の童がちよこ/\した足取で行く。殿《しんがり》は狗で、大きい頭をゆさぶりながら附いて行く。主人は二度目の散歩で気が落ち着いたと見えて、部屋に帰つて、書き掛けた手紙を書いた。
「僕が今君に告げようとする事件は、君には児戯に類するやうに感ぜられるだらう。併し此|瑣事《さじ》が僕の心の安寧と均衡とを奪ふのである。苟《いやし》くも威厳を保つて行かうとする人間の棄て難い安寧と均衡とが奪はれるのである。頃日《このごろ》僕は一人の卑しい男に邂逅《かいこう》した。其人はそれ迄に一度も見たことのない人である。然るにどうも相識の人らしい容貌をしてゐる。若し僕が婆羅門教の輪廻《りんゑ》説を信じてゐるなら、僕は其人に前世で逢つたと思ふだらう。一層不思議なのは、此遭遇の記念が僕の頭の中で勢を逞《たくまし》うして来て、一夜水に漬けて置いた豆のやうにふやけて、僕の安寧を奪ふと云ふ一事である。そこで僕は自分で其人を捜しに出掛けようと思つてゐる。それは自分の弱点を暴露するのが恥かしくて、他人に捜索を頼まうと云ふ決心が附かぬからである。或は此一切の事件は僕が健康を損じてゐる所から生じたのかも知れない。僕は頃日頻に眩暈《めまひ》がする。夜眠ることが出来ない。精神が阻喪して、故なく恐怖に襲はれる。要するに健康が宜しいとは云はれぬからである。僕の邂逅した男は非常に光る灰色の目をしてゐる。膚は日に焼けてゐて髪は黒い。体格や身の丈は僕と同じである。どうぞカルプルニアさんに宜しく言つてくれ給へ。そして子供達に接吻して遣つてくれ給へ。あの水瓶《すゐびん》はもう疾《と》つくに君の本宅の方へ届けて置いた。そんならこれで擱筆する。」

     二

 医師は暫く黙つてゐて、そして問うた。
「一体あなたの、その体の工合はどんな場合に似てゐるのですか。」
「わたしは牢屋に入れられた人の体の工合は知りません。併しどうもわたしの体の工合はさう云ふ人に一番似てゐるらしいのです。こなひだ中からは自由行動が妨げられてゐるやうで、猶自由意志までも制せられてゐるやうです。歩きたいのに歩かれない。息がしたいのに窒息しさうになる。詰まり一種の隠微な不安、不定な苦悶があるのです。」
 フロルスは疲れたらしい様子で口を噤《つぐ》んだ。暫くして顔の色を蒼くして語を継いだ。
「事によるとわたしの写象《しやざう》には、此病の起る前に見た夢が影響してゐるかも知れません。」
「はあ。夢を見ましたか。」
「えゝ、手に取るやうな、はつきりした夢を見たのです。そして不思議にもその夢がいまだに続いてゐるやうなのです。若
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