に死んでゐた。医師は驚きながら差配人に死骸の頸の痕を指さして見せた。くるりと帯のやうに、黒ずんで腫れ上がつて、皮の下には血が出てゐる。なんとも説明のしやうの無い痕である。
フロルスの死目に逢つた只一人のルカスは、恐怖のお蔭で物が言はれるやうになつて、吃りながらかう云つた。
「死だ、死だ。又縛られなすつたのだ。そして歩いて歩いて、とう/\がつかりなすつて、床の上にお倒なさる。わたしにはなんにも仰やらない。わたしは飛び附いた。すると咽をぜい/\云はせながら、目を開《あ》いて御覧なすつた。ああ。神々様。朝日が窓から赤く差した。フロルス様は黒くおなりなすつて、それ切動かなくおなりなすつた。」
死骸の始末などのために、人々はルカスの事を忘れてゐた。
翌朝やつと明るくなる頃、襤褸《ぼろ》を着た跣足《はだし》の老人が来て、フロルスに逢ひたいと云つた。主人の怪しい死様《しにざま》に就いて、何か分かるかと思つて、差配人が出て老人に逢つた。
老人は骨※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]《こつかう》で、しかも淳樸なものらしい。周囲《まはり》に狗がたかつて吠えてゐる。
「内の檀那の亡くなつたのを、お前知らずに来たのかい。」
「いゝえ。知りません。だがそれはどうでも好いのです。わたしは只言ひ附けられた用を済ませさへすりやあ好いのです。」
「誰が言ひ附けたのだ。」
「マルヒユスさんです。」
「それは誰だい。」
「今は此世の人ではありません。」
「亡くなつたのかい。」
「きのふの朝おしおきになりました。」
「内の檀那を知つてゐた人かい。」
「いゝえ。知らないのですが、宜しく言つて、そして死んだことを知らせてくれと云ひました。それからこちらでは※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《をし》が物を言ふだらうと云ひました。」
「うん。己はもう物を言つてゐる。」これはルカスが駆け寄つて、老人の手に接吻しながら言つたのである。
「お前檀那の死顔が見たいのかい」と、差配人が問うた。
「なに。それには及びません。ひどくお変になりましたか。」
「うん。ひどくお変になつた。」
「マルヒユスさんも羂《わな》でひどく顔が変ました。頸にひどい痕が附いて。」
「まだ何か言ふことがあるかい。」
「いゝえ。もう往きます。」
「わたしは一しよに往くよ。」これはルカスが優しい声で云つたのである。
もう日が薄紅《うすくれなゐ》に中庭を彩《いろど》つてゐた。雇はれて来た女原《をんなばら》が、痩せた胸をあらはにして、慟哭の声を天に響かせた。
此訳稿の首《はじめ》に人物の目録を添へたのは、脚本には有つても、小説には例の無い事である。訳者は只此短篇を会得《ゑとく》し易くしようと思つて、特に読者のために、篇中に出してある人物を表裏二様に分けて列記して置いた丈の事である。
底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「三田文学 四ノ七」
1913(大正2)年7月1日
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年11月13日公開
2005年12月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング