アれまで自分の住んでゐた宿房とその中にある器財とを皆僧院に引き渡して置いて、タムビノの山をさして出立した。
 山の首座は素《もと》商人で遁世した人である。此人がセルギウスを引見して、なんの変つた扱をもせずに、只あたり前の事のやうに寂しい草庵を引き渡してくれた。草庵と云ふのは山の半腹を横に掘り込んだ洞窟である。亡くなつた先住イルラリオンもそこに葬つてある。即ち洞窟の一番奥の龕《がん》が墓になつてゐて、その隣の龕が後住《ごぢう》の寝間になつてゐるのである。そこには藁を束ねた床がある。その外卓が一つ、聖像と書物数巻とを置いてある棚が一つある。扉は内から錠を卸すことが出来るやうにしてある。その扉の外面にも棚が吊つてあつて、これは毎日一度づゝ僧院から食事を持つて来て載せて置いてくれる棚である。
 セルギウスはとう/\山籠《やまごもり》の人になつてしまつた。

     三

 セルギウスが山籠をしてから六年目のことであつた。ロシアではクリスト復活祭の前にモステニツアと云つて一週間バタや玉子を食べて肉を断つてゐることがある。そのモステニツアに、タムビノに近い或る都会で、富有な男女の人々が集つて会食
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