フ幸です。昔の同僚をお忘にはなりますまいね。」
白髪で囲まれた長老の笑顔は将官の詞を面白がつてゐるやうに見える。それから将官の叮嚀に化粧をした顔には、得意の色が浮んで、その口からは酒の匂、その頬髯からは葉巻煙草の匂がする。総て此等の事を、セルギウスは鞭で打たれるやうに感じた。
セルギウスは長老に向つて再び敬礼した。そして云つた。「長老様のわたくしをお呼になつた御用は。」かう云つた時のセルギウスが顔と目との表情には「なぜか」と云ふ問が現はれてゐた。
長老は答へた。「なに。只閣下があなたを見たいと云はれたからですよ。」
セルギウスの顔は真つ蒼になつて、物を言ふ時唇が震えた。「わたくしは世間の誘惑を避けようと思つてそれで社会から身を引いたのでございます。それに只今主の礼拝堂で、祈祷の最中に、なぜ誘惑がわたくしに近づくやうにお取計らひになりましたか。」
長老の顔は火のやうになつて、額に皺が寄つた。「もう宜しいから、持場へお帰なさい。」
その晩にはセルギウスは徹夜して祈祷をした。そして心密《こゝろひそか》に決するところがあつて、翌朝長老と同宿一同とに謝罪した。自分の驕慢を詫びたのであ
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