りした事があると云ふ記念品になつて残つてゐるだけである。
 毎日客の数が殖えて、セルギウスは祈祷をしたり、心の修養を謀つたりする時間が少くなつた。稀《まれ》に心の明るくなつた刹那が来ると、セルギウスは自分を地から湧く泉に此べて見る。自分は最初から水の湧く力の弱い泉ではあつたが、兎に角生きた水が噴き出してゐた。静に底から洩いて来て、外へ溢れてゐた。その泉のやうに、自分は素《も》と真《しん》の生活をしてゐたのだ。そこへあの女が来た。今では尼になつてアグニアと呼ばれてゐる女である。あれが来てゐた一晩の間、自分はあれが事を思ひ続けてゐたが、それと同じやうに今でもあれが事は心に刻まれて残つてゐる。あの女は自分が真の生活をしてゐる時、自分を誘惑しに来たのだ。そしてその清い泉の一口を飲んだ。それから後はもう自分の泉には水がたんとは溜まらない。そこへ咽のかわく人が大勢来てせぎ合つて、互に押し退けようとしてゐる。その人達の足で、昔の泉は踏み躪《にじ》られて跡には汚い泥が残つてゐる。セルギウスは稀に心の明るくなつた刹那には、こんな風に考へてゐる。併しそれは稀の事で、不断は疲れてゐる。そして自分の疲れた有様を見て独りで感動してゐる。
 春の事であつた。ロシアでクリスト復活祭の第四週の水曜日にする寺院の祭がある。その祭の前日であつた。セルギウスは草庵の小さい龕《がん》の前で晩のミサを読んだ。草庵には這入られるだけの人が這入つてゐた。二十人位もゐたゞらう。皆位の高い人や金持である。一体セルギウスは誰をでも草庵に入れる事にしてゐるが、いつもセルギウスに付けられてゐる僧と、日々《にち/\》僧院から草庵へ派遣する事になつてゐる当番の僧とで、人を選《え》り分る。草庵の外には群衆が押し合つてゐる。巡礼者が八十人許もゐて、それには女も多く交つてゐる。それ等が皆戸口の前にかたまつてゐて、セルギウスの出るのを待つて、祝福をして貰はうと思つてゐる。
 ミサは済んだ。セルギウスは歌を歌ひながら草庵を出て、先住の墓に参らうとした。併し門口を出ると、よろけて倒れさうになつた。するとすぐ背後《うしろ》に立つてゐた商人と寺番の役をしてゐる僧とが支へた。
「どうなさいました。セルギウス様。あゝ。わたし驚いてしまつた。まるで布のやうな白い色におなりなすつたのだもの。」かう云つたのは女の声である。
 セルギウスはすぐに気を取り直した。そしてまだ顔の色の真つ蒼なのに、商人と寺番とを脇へ押し退けて、前の歌の続きを歌つた。此時三人の人がセルギウスにけふのお勤をお廃めになつたら宜しからうと云つて諫《いさ》めた。一人はセラビオンと云ふ寺番で、今一人は寺男である。今一人はソフイア・イワノフナと云ふ貴夫人で、此女はセルギウスの草庵の側へ来て住んでゐて、始終セルギウスの跡を付いて歩くのである。
「どうぞお構《かまひ》下《くだ》さるな。なんでもありませんから。」セルギウスは殆ど目に見えぬ程唇の周囲《まはり》を引き吊らせて微笑みながら、かう云つた。そしてその儘|勤行《ごんぎやう》を続けた。「聖者と云ふものはかうするものだ」と、セルギウスは腹の中で思つた。それと同時に「聖者ですね、神のお使はしめですね」と云ふ声が、セルギウスの耳に聞えた。それはソフイア・イワノフナと、さつき倒れさうになつた時支へてくれた商人とである。セルギウスは体を大切にして貰ひたいと云ふ人の諫《いさめ》も聴かずに、勤行を続けた。
 セルギウスが帰つて来ると、群集が又付いて帰つた。龕に通ずる狭い道を押し合ひへし合ひして帰つた。セルギウスは龕の前でミサを読んでしまつた。多少儀式を省略したが、とう/\終まで読んでしまつた。
 勤行が済むと、セルギウスはそこにゐた人々に祝福を授けて、それから洞窟の外に出た。そして戸口に近い楡の木の下に据ゑてあるベンチに腰を掛けて、休息して、新しい空気を吸はうとした。さうしなくてはもう体が続かないと思つたのである。
 併しセルギウスが戸口に出るや否や、人民は飛び付くやうに近寄つて来て祝福を求める。救を求める。種々の相談を持ち掛ける。その中には霊場から霊場へ、草庵から草庵へとさまよひ歩いて、どの霊場でも、どの山籠の僧の前でも、同じやうに身も解《と》けるばかり、感動する性《たち》の巡礼女が幾らもある。この世間に類の多い、甚だ非宗教的な、冷淡な、ありふれた巡礼者の型は、セルギウスも好く知つてゐる。それから又こんな巡礼者がある。それは軍役を免ぜられた兵卒の老人等である。酒が好で、真面目な世渡が出来なくなつてゐるので、僧院から僧院へと押し歩いて、命を繋いでゐるのである。又只の農家の男女もある。それは種々の身勝手な願をしに来たり、極くありふれた事柄を相談しに来る。例へば自分の娘を何の誰に嫁入させようとか、どこへ店を出さうとか、
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