どこで田地を買はうとか云ふ事を持つて来て、可否を問ふのである。又乳を飲ませながら眠つて子供を窒息させたが、その子供の霊が助かるだらうかと尋ねたり、私生児でも救が得られようかと尋ねたりする。
 総《すべ》てこんな事にはセルギウスは聞き飽きてゐる。面白くもなんともない。こんな人達から新しい事を聴くことは決して出来ない。又こんな人達に宗教心を起させようとしても徒労である。それは皆セルギウスには好く分つてゐる。それでもセルギウスは此大勢の人を見るのが厭ではない。此人達は皆自分を尊信して、自分の祝福を受けたり、自分の意見を聞いたりしようと思つて来るのだと思へば憎くもない。そこでセルギウスは此人達をうるさがりながら歓迎してゐるのである。
 番僧セラビオンは群集を追ひ散らさうとした。そして群集に向つて、セルギウス様は疲労してゐられると断つた。併しセルギウスは「子等をして我許に来さしめよ」と云ふ福音書の詞を思つて、自分の挙動に自分でひどく感動しながら、群集を呼び寄せるやうに言ひ付けた。
 セルギウスは身を起して欄《てすり》の所に出た。その外には群集が押し合つて来てゐる。セルギウスは一同に祝福を授けて、それから一人一人物を問ふのに答へ始めた。その自分の声が弱いのに、自分で感動しながら答へ始めた。併しなんと思つても来てゐるだけの人に皆満足を与へることは出来ない。セルギウスは又目の前が暗くなつて、よろけ出した。やう/\手で欄を掴まへて倒れずにゐた。血が頭に寄つて来て、一度顔が蒼くなつて、すぐ火のやうに赤くなるのを感じた。「どうぞ皆さんあしたまで待つて下さい。わたしにはけふはもう御返事が出来ません。」かう云つて置いて、又一同に祝福を授けて、木の下のベンチの方へ帰らうとした。例の商人がすぐに来て手を引いてベンチへ連れて往つて、腰を卸させた。群集の中からはこんな声がする。「セルギウス様。どうぞわたし共を見放さないで下さい。わたし共はあなたに見放されては、もう生きてゐられません。」
 商人はセルギウスを楡の木の下のベンチに連れて往つて置いて、自分は巡査のやうに群集を追ひ散らすことに努力してゐる。自分の声をセルギウスに聞かすまいとして、小声で云つてゐるが、その癖語気は鋭く、脅《おびやか》すやうである。「さあ、退《の》いた退いた。こゝを退くのだ。祝福をして戴いたぢやないか。その上どうして貰はうと云ふのだ。退くのだ。それが厭なら少し寄附でもするが好い。おい、そこにゐるをばさん。お前も退くのだ。どこへ押して来ようと云ふのだ。さつきも聞いた通り、もうけふはおしまひなのだ。又あした来たら、お前も伺ふ事が出来るかも知れない。運次第だ。もうけふは駄目だよ。」
「いゝえ。わたくしは只セルギウス様を、一目拝めば宜しいのです。」かう云つたのは婆あさんである。
「お顔ならすぐに見せて遣る。何を押すのだ。」
 商人が随分群集につらく当るのが、セルギウスに聞えた。セルギウスは庵室の小使を呼んで、あの人に余りひどく人を叱らないやうに言へと命じた。かう云つたつて、商人は矢張追ひ退けるとは、セルギウスにも分つてゐる。自分ももう一人でゐたい、休みたいと思つてゐる。それでも小使を遣つて商人に注意を与へた。これは群集に感動を起させようとしたのである。
 商人は答へた。「好いよ、好いよ。何もわたしは皆を追ひ退けるのではない。只少し抑へるだけだ。打ち遣つて置くと、あの人達は人一人責め殺す位平気なのだ。皆自分の事ばかり考へてゐて、人を気の毒だなんぞとは思はない。行けないよ。退くのだと云つてゐるぢやないか。あす来るのだよ。」とう/\群集が悉く散つてしまふまで、商人は止めなかつた。
 商人がこんなに骨を折るには種々の理由がある。一つは自分が平生秩序を好んでゐるからである。今一つは大勢の人を追ひまくるのが面白いのである。併し今一つ何よりも大事な理由がある。それは自分が一人残つてセルギウスに頼まうと思ふことがあるのである。
 商人は妻を亡くした独りものである。妻の死んだ跡に病気な娘が一人残つてゐる。その娘は病気があるために、人に※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》に遣ることが出来ぬのである。商人は此娘を連れて千四百ヱルストの道をわざ/\来た。これは娘の病気をセルギウスに直して貰はうと思ふからである。
 商人の娘はもう病気になつてから二年立つてゐる。その間父は娘を諸方に連れて廻つて、病気を直して貰はうとした。最初には地方の大学の外来診察を受けさせた。併しなんの功もなかつた。それからサマラ領の百姓で、療治の上手なものがあると聞いて、連れて往つた。それは少し利目があつたらしかつた。それからモスクワの医者の所へ連れて往つて、金を沢山取られた。これはなんにもならなかつた。丁度その時セルギウスがなんの病気でも
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