くなつた。鬚は長く伸びて白くなつた。併し頭の髪は稀《うす》くなつたゞけで、まだ黒くて波を打つてゐる。

     五

 数週間|此方《このかた》セルギウスは思案にくれてゐる。今のやうな地位に自分がなつたのは、果して正しい行であらうかと思案するのである。勿論これは故意にしたのではない。後には管長や院主が手を出して今のやうな地位にしてくれたのである。最初は十四歳の童《わらべ》の病気の直つた時である。その時から此方の事を回顧して見れば、自分は一月は一月より、一週は一週より、一日は一日より内生活を破壊せられて内生活の代りに只の外生活が出来て来たのである。譬へば自分の内心を強ひて外へ向けて引つ繰り返されたやうなものである。
 自分で気が付いて見れば、自分は今僧院の囮にせられてゐる。僧院ではなるたけ客の多いやうに、喜捨をしてくれる人の多いやうにと努めてゐる。僧院の事務所では、セルギウスを種にして、なるたけ多く利益を得ようと努めてゐる。例之《たとへ》ばセルギウスには最早一切|身体《しんたい》の労働をさせない。日常の暮しにいるだけの物は悉《こと/″\》く給与してくれる。セルギウスは只客を祝福して遣るだけで好い事になつてゐる。此頃はセルギウスの便宜を計つて客に面会する日が極つてゐる。男の客の為めには待合室が出来た。セルギウスが立つてゐて、客を祝福する座席は欄《てすり》で囲んである。これは兎角女の客が縋り付くので座席から引き卸される虞《おそれ》があるからである。人は自分にかう云つてゐる。客は皆自分に用があつて来るのだ。来る客の望を※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》へるのは、クリストの意志を充《みた》す所以《ゆゑん》であるから、拒んではならない。折角来た客に隠れて逢はないでは残酷である。こんな風に云はれて見れば、一々道理はある。併しその云ふが儘になつてゐて見ると、一切の内生活が外面に転じてしまふことを免れない。自己の内面にあつた生命の水源が涸れてしまふ。自分のしてゐる事が次第に人間の為めにするばかりで、神の為めにするのではなくなる。客に教を説いて聞かせたり、客を祝福して遣つたり、病人の為めに祈祷したり、客に問はれてどんな生活をするが好いと言つて聞かせたり、不思議に病気が直つたとか、又受けた教の功能があつたとか云ふ礼を聞いたりする時、セルギウスはそれを嬉しがらずにはゐられない。又自分が人間の性命の上に影響することの出来るのを、価値のある事のやうに思はずにはゐられない。セルギウスには自分が人間世界の光明のやうに思はれる。併し此心情を明白に思ひ浮べて見ると、曾《かつ》て我内面に燃えてゐた真理の神々しい光明が、次第に暗くなつて消えて行くのだと云ふ事が、はつきりして来る。「己のしてゐる事がどれだけ神の為めで、又どれだけ人間の為めだらうか。」此問題が絶えずセルギウスを責める。セルギウスにはこれに答へる勇気がない。そして心の底では、こんな風に神の為めにする行《おこなひ》の代りに人間の為めにする行を授けたのは、悪魔の所為《しよゐ》だらうと思はれる。その証拠には昔は山籠の住家《すみか》へ人の尋ねて来るのがうるさかつたのに、今では人が来ないと寂しくてならない。今は人の来るのがうるさくないでもなく、又その為めに自分が疲れもするが、矢張心中では人が来て自分を讃め称へてくれるのが嬉しくなつてゐるのである。
 或る時セルギウスは此土地を立ち退いて、どこかへ身を隠してしまはうかと思つた。そんな時に何から何まで工夫して百姓の着る襦袢、上衣、ずぼん、帽子などまで用意した事がある。人には自分で着るのではなくて、自分を尋ねて来る貧乏人に遣るのだと云つた。さてその出来上つた品々をしまつて置いて考へた。あれを着て、長くなつた髪を切つて、立ち退けば好いのである。此土地を離れるには、まづ汽車に乗るとしよう。三百ヱルストばかりも遠ざかつたら好からう。それから汽車を降りて村落の間を歩かうと考へた。そこで或る時廃兵の乞食が来たのにいろ/\な事を問うた。村落を歩くにはどうして歩くか。どうして合力《がふりき》をして貰ふか。どうして宿を借るかと云ふのである。廃兵はどんな人が多分の合力をしてくれるものだとか、宿を借るにはどうして借るものだとか、話して聞かせた。セルギウスはそれを聞いて、自分もその通りにしようと思つた。或る夜とう/\例の衣服を出して身に着けて、これから出掛けようとまで思つた。併しその時になつて、去留《きよりう》いづれが好からうかと、今一応思案した。暫くの間はどちらにも極める事が出来なかつた。そのうち次第に意志が一方に傾いて来て、とう/\出掛けるのを廃《よ》して、悪魔のするが儘になつて留《と》まる事にした。只その時拵へた百姓の衣類が、こんな事を考へたり、感じた
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