めてゐる人間の為めには、神も何もない。己はこれから新に神を尋ねなくてはならない。」
 かう思ひ立つたセルギウスは、山を出てからパシエンカを尋ねたまでと同じやうに、村から村へとさまよつた。一人で歩く時もある。外の巡礼共と一しよに歩く時もある。そしてクリストの御名を唱へて、食を求め、宿を借る。その間には意地の悪い百姓の女房に叱られる事もある。酒に酔つた百姓に嘲《あざけ》られる事もある。併し大抵は飲食にありつき、銭をも貰ふ。セルギウスの風采が立派なので、尊敬してくれるものがあるかと思へば、又どうかするとあんな立派な奴が落ちぶれて、好い気味だと思ふらしいものもある。併し詰りはセルギウスの方で飽くまで優しくするので、どんな人にも打ち勝つて行く。
 どうかして人の家に聖書のあるのを見付けると、その中から一節づつ読んで聞かせる。その度毎に人は皆感動して、驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。それはセルギウスが読むのを聞けば、今まで好く知つてゐた筈の事も、全く新しい事のやうに聞えるからである。
 どこかで人の相談を受けて智慧を貸して遣つたり、又人の力になる事をして遣つたり、喧嘩の仲裁をして遣つたりする事があつても、セルギウスは人の礼を言ふのを待たずに、その場を立ち退く。さうしてゐるうちに、次第にセルギウスの心に神の啓示が現れて来た。
 或る時セルギウスは婆あさん二人、癈兵一人と連になつて、街道《かいだう》を歩いてゐた。
 すると紳士と貴夫人とが、馬の挽いた橇に乗つて来た。その側には今一人の紳士と今一人の貴夫人とが騎馬で付いてゐた。橇の中の貴夫人は年を取つてゐて、その夫と娘とが馬に乗つて附いてゐるのらしい。橇の中にゐる男は旅中の外国人である。多分フランス人だらう。
 此一行がセルギウス等を見て馬を駐《と》めた。フランス人らしい男に 〔les《レエ》 pe`lerins《ペルレン》〕(巡礼)を見せようと云ふのである。巡礼と云ふものは、乞食をして歩くもので、百姓の迷信を利用して生活して行くのだと思つてゐる人達である。一行は巡礼に分らせない積りでフランス語で会話をしてゐる。
 フランス人らしいのが云つた。「〔Demandez《ドマンデエ》 leur《リヨオル》, s'ils《シル》 sont《ソン》 bien《ビエン》 su^rs《シユウル》 de《ド》 ce《シヨ》 que《キヨ》 leur《リヨオル》 pe`lerinage《ペレリナアジユ》 est《エエ》 agre'able《アグレアアブル》 a`《ア》 Dieu《ヂヨオ》〕.」(あの人達に聞いて御覧なさい。巡礼をすると云ふ事が実際神様の気に入ることだと心から思つてゐるのでせうか。)此詞はロシア語で巡礼に取り次がれた。
 婆あさん達が答へた。「それはどうお思なさらうと、神様次第でございますよ。わたくし共は足でだけは御奉公をいたしてゐますが、胸で御奉公をいたしてゐると申して宜しいやら、そこまでは分りません。」
 次に癈兵が同じ事を問はれた。
 癈兵は答へた。自分は真の独身者で、どこに足を留めてゐると云ふ事も出来ないので、かうしてさまよつてゐるのだと云つたのである。次にセルギウスが問はれた。「神の奴僕《ぬぼく》の一人でござります。」
「Qu'est《ケエ》 ce《シヨ》 qu'il《キル》 dit《ヂイ》? 〔Il《イル》 ne《ヌ》 re'pont《レポン》 pas《パア》.〕」(あの男はなんと云ひますか。返事にはなつてゐないやうですが。」
「Il《イル》 dit《ヂイ》, qu'il《キル》 est《エエ》 un《アン》 serviteur《セルヰトヨオル》 de《ド》 Dieu《ヂヨオ》.」(あれは自分が神の奴僕だと云つてゐます。)
「〔Il《イル》 doit《ドア》 e^tre《テエトル》 un《アン》 fils《フイス》 de《ド》 pre^tre《プレエトル》.〕 Il《イル》 a《ア》 de《ド》 la《ラ》 race《ラアス》. Avez《アヱエ》−|vous《ヴウ》 de《ド》 la《ラ》 petite《プチト》, monnaie《モンネエ》?」(あの男は司祭の倅かなんかでせう。品が好いですね。あなた小さいのがございますか。)
 フランス人はポツケツトを探つて、小銭を出して、巡礼一人に二十コペエケンづゝ遣つた。「Mais《メエ》 dite《ヂツト》 leur《リヨオル》 que《キヨ》 ce《シヨ》 n'est《ネエ》 pas《パア》 pour《プウル》 les《レエ》 cierges《シエルジユ》, que《キヨ》 je《ジユ》 leur《リヨオル》 donne《ドンヌ》, mais《メエ》 pour《プウル》 qu'ils《キル》 se《ス》 〔re'gal
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