ない事もあります。でもどちらでも優しくいたしてくれますので。」
「そしてその教へて貰ふ子供は出来ますか。」かう云つたセルギウスの目には殆ど認められぬ程の軽い微笑が見えた。
パシエンカは妙な事を問はれたと不思議に思ふらしく訝《いぶかり》の目をしてセルギウスを見た。「それは出来ますとも。一人なんぞは立派な子でございます。親は肉屋さんですが、それは正直な、可哀らしい娘でございます。ほんにわたしがもつと気が利いてゐましたら、夫には立派な知合がありましたのですから、婿にももつと好い役の出来るやうに世話をして遣る事が出来ましたのでございませうが、なんにも分りませんので、とう/\一家がこんなに落ちぶれてしまひました。」
「成程、成程。」かう云つてセルギウスは頭を項垂《うなだ》れた。「それはさうとお宗旨の方はどうですか。」
「どうぞその方の事は仰やらないで下さいまし。わたくしは本当に不精で、遣り放しでございます。聖餐の時には子供を連れて参りますが、間々《あひだ/\》では一月もお寺に参らずにゐる事がございますの。子供だけは遣りますが。」
「なぜ御自分では往かれないのですか。」
「正直なところを申しますれば、娘や孫の手前が恥かしくてまゐられません。お寺に参るには余り着物が悪くなつてゐます。新しいのは出来ません。それに不精でございますので。」
「そんなら内では御祈祷をなさるのですか。」
「それはいたしますが、実は申訳のないいたしやうでございます。なんの気乗もしないでいたしてゐます。御祈祷はどんなにしていたすものだと云ふ事は存じてゐながら、どうしてもその心持になられません。如何《いか》にも自分が詰らない人間だと承知してをりますので。」パシエンカは顔を赤くした。
「さうさね。どうもさうなり易いものですよ。」セルギウスはさもあらうと思つたらしかつた。
又婿の声がしたので、パシエンカは「すぐ往くから、お待よ」と返事をして、髪を撫で付けて出て行つた。今度は暫く時間が立つて、火屋《ほや》のないブリツキの小ランプを手に持つて帰つて来た。
其時セルギウスはさつきの儘の姿勢で、頭を項垂れて膝に肱を衝いてゐた。併し側に置いてあつた袋をいつの間にか背負つてゐる。セルギウスは疲れたやうな、まだ美しい目を挙げて、パシエンカを見て、深い深い溜息を衝いた。
パシエンカが云つた。「わたくし孫達にはあなたがどなたゞとも申さずに置きました。只昔お心易くした御身分のあるお方で、今巡礼に出て入らつしやるのだと申しました。あちらのお茶の間にお茶が出してありますから、どうぞ入らつしやつて。」
「いえ。もうそれには及びません。」
「そんならこちらへ持つて参りませうか。」
「いえ。それにも及びません。パシエンカさん。あなたのわたくしをもてなして下さつたお礼は、神様がなさるでせう。わたくしはもうお暇《いとま》をします。若しわたくしの事を気の毒だと思つて下さるなら、どうぞ誰にもわたくしに逢つた事を話さずにゐて下さい。神様に掛けて頼むから、誰にも言はないで下さい。本当にわたくしはあなたを難有く思つてゐます。実は土に頭を付けてお礼が言ひたいのですが、さうしたらあなたがお困りでせうから止めます。わたくしの御迷惑を掛けた事は、クリスト様に免じてお恕《ゆる》し下さい。」
「そんならどうぞわたくしに祝福をお授けなすつて。」
「それは神様があなたにお授け下さるでせう。どうぞわたくしの悪かつた事を免《ゆる》して下さい。」かう云つてセルギウスは立ち去らうとした。
併しパシエンカは引き留めて、食パンや、菓子パンや、バタをセルギウスに遣つた。
セルギウスは素直にそれを受けて、戸口を出た。外は闇である。家二軒程の先へ歩いて往つた時は、もう姿がパシエンカの目に見えなかつた。
近く住まつてゐる僧侶の家の犬が吠えた。パシエンカはそれを聞いて、セルギウスがまだ町を出離れない事を知つた。
――――――――――――
セルギウスは考へた。「己の夢はかうしたわけだつた。己はあのパシエンカのやうに暮せば好かつたに、さうしなかつたのだ。己は陽に神の為めに生活すると見せて、陰に人間の為めに生活した。パシエンカはつひ人間の為めに生活する積りでゐて、実は神の為めに生活してゐた。己は人間に種々の利益《りやく》を授けて遣つたやうだが、あんな事をするよりは、難有く思はせようなどと思はずに、水でも一杯人に飲ませた方が増しだつた。ちよいとした善行の方が己の奇蹟よりは好いのだ。その癖己のした事にも、神に仕へると云ふ正直な心が、少しは交つてゐたのだが。」セルギウスはかう考へて、自己を反省して見て、さて云つた。
「成程。その心もないではなかつた。只世間の名聞《みやうもん》を求める心に濁されて、打ち消されてゐたのだ。己のやうに現世の名誉を求
前へ
次へ
全29ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング