事をしてゐる。折々は不機嫌な詞も交る。
「十二月になつて色をする奴があるかい。もう子供の生れる時ぢやないか。」
「さう云つたつて、年の若いうちは、どうも待たれないからね。」
「それは待たなくてはならないのだ。」
「お前さんなんぞは待つたかね。」
「わしは兵隊ではなかつた。わしは働いた。世間を渡つてゐるうちに出逢ふ丈の事に出逢つて来た。」
「分からないね。」
「今に分かるよ。」
 岸から余り遠くない所に、天狼星《てんらうせい》が青く水に映つてゐる。其影の暈《しみ》のやうに見える所を、長い間ぢつと見てゐると、ぢき側に球《たま》の形をした栓の木の浮標が見える。人の頭のやうな形をして、少しも動かずに浮いてゐる。
「爺いさん、なぜ寝ないかね。」
 漁師は持ち古した、時代が附いて赤くなつた肩掛の巾《きれ》を撥ね上げて、咳をしながら云つた。
「網が卸してあるのだよ。あの浮標を見ないか。」
「さうかね。」
「さきをとつひは網を一つ破られてしまつたつけ。」
「海豚《いるか》にかね。」
「今は冬だぜ。海豚が罹《か》かるものか。鮫《さめ》だつたかも知れない。それとも浮標か。分かりやあしない。」
 獣の脚で踏
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