それが恐ろしい顎《あぎと》を海にぺたりと漬けて、音も立てずに油のやうに凝《こ》つた水を啜《す》つてゐるかと思はれる。
 十二月になつてからは、今宵のやうな、死に切つた静けさの闇夜が、カプリの島に度々ある。いかにも不思議な静けさなので、誰でも物を言ふに中音で言ふか囁くかせずにはゐられない。若し大きい声をしたら、この天鵝絨《びろうど》のやうな青い夜の空の下で、石の如き沈黙を守つて、そつと傍観してゐる何物かの邪魔をすることにならうかと憚るのである。
 だから今島の浪打際の、石のごろ/\した中にすわつてゐる二人も中音で話をしてゐる。一人は税務署附の兵卒である。黄いろい縁《へり》を取つた黒のジヤケツを着て、背に小銃を負つてゐる。此男は岩の窪みに溜まる塩を、百姓や漁師の取らぬやうに見張るのである。今一人は漁師である。色が黒くて、耳から鼻へ掛けて銀色の頬髯が生えてゐる。鼻は大きくて、鸚鵡の嘴《くちばし》のやうに曲つてゐる。
 岩は銀象嵌をしたやうである。併しその白い金質《きんしつ》は潮《うしほ》に触れて酸化してゐる。
 役人はまだ年が若い。年齢相応な、口から出任せの事を言つてゐる。老人は不精々々に返
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