よそしい話を交へながら、音楽家の方からは不思議な、少し気違ひ染みた目附きをして女を見てゐた。女はわざと伏目になつたが、燃えるやうな目で見詰めてゐられる内に、押さへ付けるやうな熱のある、名状すべからざる感じが、女の胸の底から湧き上がつて来た。
公爵に勧められて、音楽家は演奏し始めた。それを聞いてゐるクサンチスの心持は、不思議な、目に見えない手が自分の髪を掴んで、種々の印象がからくりのやうに旋《めぐ》つて現はれる世界を、引き摩り廻すかと思ふやうであつた。
折々公爵は、音楽の或る一節を、程好く褒めて、クサンチスの方へ顔を俯向けて、その一節に就いて自分の思つてゐる事を説明した。併し黙つて、魅せられたやうになつて音楽を聴いてゐる女の耳には、公爵の云ふ事は一|言《ごん》も聞えなかつた。その癖音楽家の目は、女に或る新しい理解を教へてゐる。女はこの目を見て、始めて沈鬱の酔《ゑひ》といふものを覚えたのである。
音楽家の家を出るや否やクサンチスは公爵に暇乞をした。我慢の出来ない程の偏頭痛がすると云つてひどく無作法に暇乞をしたのである。そして自分の台の上に帰つて行つた。
今迄知らない感覚がクサンチス
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