音楽家が和する。
「神々しい。」
「理想的だ。」
こんな風に二人は鼬ごつこをして褒めちぎる。それをフアウヌスは傍の柱に寄り掛かつて、非常に落ち着いた態度で、右から左へと見比べて、少し伸びた髭を撚《ひね》つてゐる。
日が暮れて、女は自分の台の上に帰つて、寝支度に髪をほどきながら、一日中にした事を、心の中で繰り返して見ると、どうしても多少の己惚《うぬぼれ》の萌すのを禁ずる事が出来ない。此女には好い癖があつて、寝る前にはきつと踊りの守護神たる、慈悲深いアルテミスに祈祷をする。それが済んで、神様の恩を感じて、軽い溜息をする。それから肱を曲げて、その上に可哀《かはい》らしい頭を載せて穏かに眠るのである。
あゝ。クサンチス姉えさん。お前さんは神様の恩を知つてゐる積りでゐるが、実はまだその恩といふものが、どれ丈の難有みのあるものだか知らないのだよ。成程お前さんは、勝利の車を、あの、女の世話をする人の中で、一番貴族的な公爵に輓《ひ》かせてゐる。それからあの多情多恨の藝術家たる青年に輓かせてゐる。それからあの強い力の代表者たるフアウヌスに輓かせてゐる。そしてこの一々趣を異にしてゐる交際が、譬へば上手な指物師の拵へた道具のやうに、しつくりと為口《しくち》が合つて、それがお前さんの生活に纏まつてゐるのだ。併しこんなに為合《しあは》せな要約が旨く出合つてゐるといふ以上はもうそろ/\均衡が破れさうになつてゐはしないか。図《はか》らず口から滑り出た一言、ちよいとした、間違つた挙動なぞのやうな、刹那の不用意から生ずる一瑣事が、この不思議に纏まつてゐる総てを打ち崩してしまひはすまいか。お前さんはそこに気が付いて、用心してゐなくてはならないのであつた。
クサンチス姉えさん。お前さんは場知《ばしら》ずで、気の利かない事をしたのでせうか。決してさうではありません。お前さんはエゲエの社《やしろ》でお祭りのある時に、踊を踊つてゐて、段々年頃になつた、小さな希臘《グレシア》生れの踊子に過ぎないのだが、自分の出合つた、新しい境遇に処するには、どうすれば好いかといふ事丈は、苦もなく悟つてゐた。昔風の、貴族的な交際に必要な、巧者な優しみも出来た。ロマンチツクの感情の劇《はげ》しい嵐に、戦慄しながら、身を委ねる事も出来た。あらゆる恋の役々を、お前さんは巧者に勤めた。
そんなら何が悪かつたのだらう。本当の事を言ひませうか。お前さんを滅ぼしたのは、彼《か》の堕落の精神だ。この精神が女を煽動して、その胸の中に不可測の出来心を起させる。この精神が、思ひも寄らない時に、女の貞操を騙して、真つ暗な迷ひの道に連れ出す。
大抵さういふ過失は、言ふに足らざる趣味の錯誤である。そこでその過失の反理性的な処《とこ》に、どうかすると一旦堕落した女の、自業自得の禍から遁《のが》れ出る手掛かりもあるものだ。なぜといふに、女は過失に陥るのも早いが、それを忘れるのが一層容易なものである。
あゝ。不幸にもお前さんはそんな風に禍を遁れることが出来なかつた。お前さんの不注意は自滅の原因になつたばかりでなく、お蔭で罪のない、お前さんの友達までが、迷惑を蒙つたのである。
その恐るべき出来事は左の通りである。
――――――――――――
或る晩フアウヌスがクサンチスを待つてゐたが、いつもの時刻に来なかつた。暫くは我慢してゐたが、とうとう十一時半が鳴つたに、クサンチスはまだ来ない。これが外の男なら、女の来ない理由を考へて、自分の恥にもならず、又自分の恋慕の情をも鎮めるやうな説明を付けただらう。そして一時の不愉快を凌ぐ事が出来ただらう。ところがフアウヌスには二つの判断を結び付ける事が出来ない。事実の外の物をば一切認める事が出来ない。一つの事実を手放すには、他の事実を掴まなくてはならないのである。
もう我慢が出来ないといふ瞬間に、フアウヌスは突然立ち上がつて、クサンチスを捜しに出掛けた。飾棚の隅の処に、薔薇の木の小箱がある。その小箱に付いて曲つて、二十歩ばかりも行くと、クサンチスが見付かつた。
まあ、なんといふざまだらう。クサンチスは彼《か》の厭な支那人の膝の上に乗つてゐる。女は体をゆすつて精一ぱいの笑声を出してゐる。厭な野郎は不細工な指で、女の着てゐる空色の外套をいぢくつてゐる。美しい襞を形づくつてゐる外套の為めに気の毒な位である。それは長くは続かなかつた。吠えるやうな大喝一声に、棚の硝子《ガラス》が震動して、からから鳴つた。フアウヌスが銅《あかゞね》の腕を振り翳した。一声の叫びをする遑《いとま》もなく、タナグラ製の小さい踊子は微塵になつてしまつた。
――――――――――――
これが踊子クサンチスの末路であつた。葡萄の実り豊かに、海原の波の打ち寄せる、クリツサの市《いち》に生れた、明
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