レエスの附いたハンケチを顔に当てゝ、身を前に屈《かゞ》めて、狡猾らしく笑ふのは、素焼の城持ちの貴婦人である。
大勢の女達が、この内証話を聞きたがつて集つて来た。そんな話をする事には、物慣れてゐる城持ちの貴婦人が、何か序開《じよびら》きに一言二言云つて置いて、傍に立つてゐた一人の耳に口を寄せて囁くと、その聞いた女が隣に伝へる。さういふ風に段々に耳打ちをして、貴婦人の話を取り次いだ。聞えるのは、興奮の余りに劇しく使はれる扇の戦《そよ》ぎばかりである。
要するにフアウヌスの受けた批評は余り好結果ではなかつた。フアウヌスは下品な、愉快げな様子をして、平手で※[#「身+果」、第4水準2−89−55]《はだか》の胸をぴたりと打つた。その音が余り好いので、小さい女人形達は夢見心地になつた。併し詞少なにしてゐても、ひどく物の分かつてゐる積りの男仲間には、この新参者に対して敵意を含んでゐるものが多かつた。
どうも上品なこの社会では、フアウヌスの、声高に、不遠慮に笑つたり、立ち振舞つたりするのがなんとなく厭に思はれたのである。
併しこの社会では、一同腹の中で卑しんで、互にその卑しむ心を知り合つてゐる丈で満足して、黙つてゐる。よしや口に出して非難する事があつても、露骨には言はないで巧みな辞令を用ゐるので、ブロンズ製の人形の野蛮な流儀では、所詮争ふ事が出来ないのである。
或る時フアウヌスは始めてクサンチスを見た。その時の様子は、まるで百姓の倅が馴染の娘に再会したやうであつた。短く伸びた髯をひねつて、さも疑のない勝利を向うに見てゐるやうな、凝り固つた微笑《ほゝゑみ》を浮べて、相手の様子を眺めてゐたのである。
そんな風に眺められて、クサンチスは腹を立てるかと思ふと、意外にもそのフアウヌスを見返す目附きが、嫌つてゐるらしくは見えなかつた。丁度その時公爵が傍にゐたので、かう云つた。
「あの土百姓があなたを、失敬な目附きをして見てゐるのに、あなたはなぜ人を好くして見返してお遣りになるのですか。」
「あら。土百姓だなんて。」女は少し不平らしくかう云つて、急に公爵の方を一目見た。その様子が二人を比べて見て、公爵の方が弱々しいと思ふらしく見えた。併し持前の気の変る事の早い女で、直ぐに又フアウヌスの事を忘れてしまつた。
そして「あんな人なんか」と云つて形附《かたつき》の裳《も》を撮み上げて、ひらりと薔薇の花で飾つた陶器の馬車に乗り移つた。
それから数日間にクサンチスの平生何事にも大概満足してゐる性質が、著明に変化した。妙に機嫌買ひになつたのである。併し公爵はこの様子を見ても、別に意味のある事とは認めない。それは多年の経験で、女の心といふものを知り抜いて、ひどく寛大に見る癖が付いてゐるからである。この寛大の奥には密《ひそか》に女を軽蔑してゐる心持があるといふ事を、誰でも大した骨折り無しに発見する事が出来るのである。
或る晩クサンチスは、ひどく苛々した様子をして、青年音楽家の処へ来た。青年が、なぜ不機嫌なのかと問うて見ると、女の返事はそつけない。女は、自分の秘密は自分丈で持つてゐるから、大きにお世話だと云つたのである。余り失敬だと思つて、青年もとうとう不愛想な詞を出した。喧嘩が避くべからざる結果であつた。丁度夏の晴れた日が続いた跡で、空気の中《うち》に電気が満ちてゐるやうに、近頃二人の感情の天も雷雨を催してゐたのである。いよいよそれが爆発した。例の如く猛烈な罵詈《ばり》やら、鈍い不平やら、欷歔《すゝりなき》やら、悲鳴やらがあつて、涙もたつぷり流された。
「ほんとにあなた紳士らしくない方ね。わたしをそんなに見損ふなんて、あんまり残酷だわ。」
かう云つた時、クサンチスの声は涙に咽《むせ》んでゐて、目はうるみ、胸は波を打ち、体中どこからどこまで抑制せられた感情が行き渡つてゐるのであつた。青年はあやまつて、子供を慰めるやうに慰めて、ふと饒舌《しやべ》つた無礼の詞を忘れてくれと頼んだ。そして二人は抱き合つて和睦した。
さて青年がいつものやうに熱情を見せさうになつて来ると、女が出し抜けに、どうも余り興奮した為めか、ひどく疲れてゐるから、赦《ゆる》して貰ひたいと云つて、青年の切に願ふのを聞かずに、いつもの時刻よりずつと早く飛び出して帰つた。
それから自分の台の上に帰つたのは翌朝であつた。
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此頃からクサンチスは、ひどく機嫌が好くなつた。
故郷の詩人の賞讚する、晴れた日の快活な光を、クサンチスは体中の※[#「月+奏」、第3水準1−90−48]理《きめ》から吸ひ込んだ。此頃ほど顔色が輝き、髪の毛が金色《きんしよく》に光り、体の輪廓が純粋になつてゐた事は、これまで無かつたのである。
「大した女だ」と、公爵が唱へる。
「無類だ」と、
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