色《めいしょく》の髪に菫の花の花飾をした踊子クサンチスは、こんな死にをしたのである。
 こんな風に一刹那の軽はずみが、厳重な運命の罰を受けたのである。
 こんな風にあれ程優しい、あれ程人附合ひの好い、あれ程情の発動の劇しい、あれ程幸福のある性命が、一撃の下に滅されたのである。
 翌日飾棚の内にゐるアモレツトの小人形《こにんぎやう》が皆喪のしるしに黒い紗を纏つた。扇は皆半ば畳まれてクレポンで包まれた。オスタアドの寺祭りは中止せられた。
 指環や腕環や耳飾に嵌めてある宝石は皆光を曇らせた。
 珍奇な香水を盛つてある、細工の手の籠んだ小瓶は、皆自然に栓が抜けて、希臘《グレシア》美人の霊魂を弔ふ為めに、世に稀な薫《かをり》を立てた。アルレスのバジリカ式の寺院を象《かたど》つた、聖トロフイヌスの納骨箱でさへ黄金《こがね》の響を、微かな哭声《こくせい》にして発したのである。
 電光の如く速かに悲報が伝へられた。公爵はそれを聞いて云つた。
「ああ。可哀《かはい》い、不行儀な奴め。己はお前のお蔭で、生甲斐があるやうに思つてゐた。己の為めには時間が重苦しい歩き付きをしてならないのだが、あの女と付き合つてゐる間は※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ひかげ》の移るのを忘れてゐた。さあ。これからはどうして暮したものだらう。己の感情の焔を、氷のやうな冬の息に捧げなくてはならぬのか。ああ。クサンチスや。クサンチスや。己はお前に縛られた奴隷であつたが、その縛《ばく》が解けて、自由を得て見れば、己は自由の為めに泣きたくなつた。」
 公爵は夜どほし鬱々と物を案じてゐた。涙を翻《こぼ》すまいと思つて我慢してゐるのに、その涙が頬の上を伝はつて流れた。一旦癒えてゐた昔の創が一つ一つ口を開くのが分かつた。左の足が痛んで来た。夜の明方に、白粉《おしろい》で粧《よそほ》つた、綺麗な首が接ぎ目からころりと落ちた。
 青年音楽家はクサンチスの死んだ事を聞くや否や、気を失つて、気が付いて、又気を失つて、とうとう台の上からころがり落ちた。落ちる拍子に、孔雀石《くじやくせき》のインキ壺の角に打つ付かつて、頭が割れて、その儘インキ壺の傍に倒れてゐた。それを、側にゐた素焼の和蘭《オランダ》人が二人で抱き起したのが、丁度公爵の首の落ちたのと同時であつた。和蘭人は二人とも人の好い、腹のふくらんでゐる男である。そしてかう云つてゐる。
「可哀さうに。まだ若い男だが、この創は直らない。」
 フアウヌスは踊子の砕けたのを見て、暫くは茫然として動かずにゐた。やうやうの事で自分のした事が分かると、どしりと膝を衝いて、荒々しい絶望の挙動をし始めた。その内に飾棚の中では、フアウヌスに対する公憤が絶頂に達した。一同この悪《にく》む可き犯罪者の為めに、刑罰を求めて已まなかつた。
 その刑罰は程なく実現した。二三日立つと飾箱の前へ大きな翁《おきな》が出て来た。どこやら公爵に似た顔付である。さて自分の所有の美術品を見ると、非常な狼藉がしてあるので、勃然として怒《いか》つた。誰が狼籍者であるかといふ事は、直ぐに分かつた。フアウヌスは誰が見ても怪むやうな、絶望の様子をしてゐたのである。翁はフアウヌスを飾箱から撮み出して、その日の内に棄売《すてうり》に売つてしまつた。それからといふものは、フアウヌスは次第に落ちぶれて行くばかりである。恥かがやかしい競売《せりうり》に遭ふ。日の目も当らない、五味だらけの隅に置かれて蜘蛛のいに掛かる。とうとうなんだか見定めの附かない物になつて、陶器の欠けや、古鉄《ふるかね》や、廃《すた》れた家の先祖の肖像と一しよに、大道店《だいだうみせ》に恥を晒して終つたのである。
 これだけの不幸の重なつた物語で見れば、賢明なる道徳の教師先生は、この中から疑ひもなく豊富な材料を見出す事であらう。あらゆる国の人達は、昔から総ての出来事を種にして、道徳を建設したではないか。さうして見ればこの場合に道徳論をするのは造作もないが、只どういふ道徳をこの中から引き出したが好いか、分からない。只その選択に困る。作者はそんな事をする事は御免を蒙りたい。なぜといふに、作者の経験によれば、こんな時に吐き出す金言は、その証明の力が大きい丈、それ丈不幸に遭遇したものに対して、無駄な残酷を敢てするに当るからである。



底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
   1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「新小説 一六ノ七」
   1911(明治44)年7月1日
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年5月11日公開
2005年12月25日修正
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