半年ばかりも病院で勤めていただろう。それから後は学校教師になって、Laboratorium《ラボラトリウム》 に出入《しゅつにゅう》するばかりで、病人というものを扱った事が無い。それだから花房の記憶には、いつまでも千住の家で、父の代診をした時の事が残っている。それが医学をした花房の医者らしい生活をした短い期間であった。
 その花房の記憶に僅《わず》かに残っている事を二つ三つ書く。一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬《ぜいたくぐすり》を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均《ひと》しくこれ casus《カズス》 である。Casus《カズス》 として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosa《クリオザ》 が残っている。作者が漫然と医者の術語を用いて、これに Casuistica《カズイスチカ》 と題するのは、花房の冤枉《えんおう》とする所かも知れない。
 落架風《らっかふう》。花房が父に手伝をしよう
前へ 次へ
全22ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング