下さい」
 と、花房が止めた。
 花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌《きげん》を伺うように、小声で云った。
「なんでございましょう」
「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」
「生理的腫瘍」
 と、無意味に繰り返して、佐藤は呆《あき》れたような顔をしている。
 花房は聴診器を佐藤の手に渡した。
「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね。」
 佐藤は黙って聴診してしまって、忸怩《じくじ》たるものがあった。
「よく話して聞《きか》せて遣《や》ってくれ給え。まあ、套管針《とうかんしん》なんぞを立てられなくて為合《しあわ》せだった」
 こう云って置いて、花房は診察室を出た。
 子が無くて夫に別れてから、裁縫をして一人で暮している女なので、外の医者は妊娠《にんしん》に気が附かなかったのである。
 この女の家の門口に懸《か》かっている「御《おん》仕立物」とお家流《いえりゅう》で書いた看板の下を潜《くぐ》って、若い小学教員が一人度々出入をしていたということが、後《のち》になって評判せられた。



底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社
  
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