な詞《ことば》の出ようが無い。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。
花房は八犬伝の犬塚信乃《いぬづかしの》の容体に、少しも破傷風らしい処が無かったのを思い出して、心の中《うち》に可笑《おか》しく思った。
傍《そば》にいた両親の交《かわ》る交《がわ》る話すのを聞けば、この大切な一人息子は、夏になってから毎日裏の池で泳いでいたということである。体中に掻《か》きむしったような痍《きず》の絶えない男の子であるから、病原菌の浸入口はどこだか分からなかった。
花房は興味ある casus《カズス》 だと思って、父に頼んでこの病人の治療を一人で受け持った。そしてその経過を見に、度々瓶有村の農家へ、炎天を侵《おか》して出掛けた。途中でひどい夕立に逢《あ》って困った事もある。
病人は恐ろしい大量の Chloral《クロラアル》 を飲んで平気でいて、とうとう全快してしまった。
生理的|腫瘍《しゅよう》。秋の末で、南向きの広間の前の庭に、木葉が掃いても掃いても溜《た》まる頃であった。丁度土曜日なので、花房は泊り掛けに父の家へ来て、診察室の西南《にしみなみ》に新しく建て増した亜鉛葺《トタンぶき》の調剤室と、その向うに古い棗《なつめ》の木の下に建ててある同じ亜鉛葺の車小屋との間の一坪ばかりの土地に、その年沢山実のなった錦茘支《れいし》の蔓《つる》の枯れているのをむしっていた。
その時調剤室の硝子窓《ガラスまど》を開けて、佐藤が首を出した。
「一寸《ちょっと》若先生に御覧を願いたい患者がございますが」
「むずかしい病気なのかね。もうお父《と》っさんが帰ってお出《いで》になるだろうから、待《また》せて置けば好《い》いじゃないか」
「しかしもうだいぶ長く待せてあります。今日の最終の患者ですから」
「そうか。もう跡《あと》は皆《みん》な帰ったのか。道理でひどく静かになったと思った。それじゃあ余り待たせても気の毒だから、僕が見ても好い。一体どんな病人だね」
「もう土地の医師の処を二三軒廻って来た婦人の患者です。最初誰かに脹満《ちょうまん》だと云われたので、水を取って貰うには、外科のお医者が好かろうと思って、誰かの処へ行くと、どうも堅いから癌《がん》かも知れないと云って、針を刺してくれなかったと云うのです」
「それじゃあ腹水か、腹腔《ふくこう》の腫瘍かという問題なのだね。君は見たのかい」
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