で、周囲の人物も皆褐色である。
「お医者様が来ておくんなされた」
と誰やらが云ったばかりで、起《た》って出迎えようともしない。男も女も熱心に病人を目守《まも》っているらしい。
花房の背後《うしろ》に附いて来た定吉は、左の手で汗を拭きながら、提《さ》げて来た薬籠《やくろう》の風呂敷包を敷居の際《きわ》に置いて、台所の先きの井戸へ駈けて行った。直ぐにきいきいと轆轤《ろくろ》の軋《きし》る音、ざっざっと水を翻《こぼ》す音がする。
花房は暫《しばら》く敷居の前に立って、内の様子を見ていた。病人は十二三の男の子である。熱帯地方の子供かと思うように、ひどく日に焼けた膚の色が、白地の浴衣で引っ立って見える。筋肉の緊《し》まった、細く固く出来た体だということが一目で知れる。
暫く見ていた花房は、駒下駄《こまげた》を脱ぎ棄てて、一足敷居の上に上がった。その刹那《せつな》の事である。病人は釣り上げた鯉《こい》のように、煎餅布団の上で跳ね上がった。
花房は右の片足を敷居に踏み掛けたままで、はっと思って、左を床の上へ運ぶことを躊躇《ちゅうちょ》した。
横に三畳の畳を隔てて、花房が敷居に踏み掛けた足の撞突《とうとつ》が、波動を病人の体に及ぼして、微細な刺戟が猛烈な全身の痙攣《けいれん》を誘《いざな》い起したのである。
家族が皆じっとして据わっていて、起って客を迎えなかったのは、百姓の礼儀を知らない為めばかりではなかった。
診断は左の足を床の上に運ぶ時に附いてしまった。破傷風である。
花房はそっと傍《そば》に歩み寄った。そして手を触れずに、やや久しく望診していた。一枚の浴衣を、胸をあらわして著ているので、殆《ほとん》ど裸体も同じ事である。全身の筋肉が緊縮して、体は板のようになっていて、それが周囲のあらゆる微細な動揺に反応《はんおう》して、痙攣を起す。これは学術上の現症記事ではないから、一々の徴候は書かない。しかし卒業して間もない花房が、まだ頭にそっくり持っていた、内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺《わす》れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。鼻の頭に真珠を並べたように滲《し》み出している汗までが、約束通りに、遺れられずにいた。
一枚板とは実に簡にして尽した報告である。知識の私《わたくし》に累せられない、純樸《じゅんぼく》な百姓の自然の口からでなくては、こん
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