「ええ。波動はありません。既往症を聞いて見ても、肝臓に何か来そうな、取り留めた事実もないのです。酒はどうかと云うと、厭《いや》ではないと云います。はてなと思って好く聞いて見ると、飲んでも二三杯だと云うのですから、まさか肝臓に変化を来《きた》す程のこともないだろうと思います。栄養は中等です。悪性腫瘍らしい処は少しもありません」
「ふん。とにかく見よう。今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一体医者が手をこんなにしてはたまらないね、君」
花房は前へ出した両手の指のよごれたのを、屈《かが》めて広げて、人に掴《つか》み付きそうな風をして、佐藤に見せて笑っている。
佐藤が窓を締めて引っ込んでから、花房はゆっくり手を洗って診察室に這入った。
例の寝台の脚《あし》の処に、二十二三の櫛巻《くしまき》の女が、半襟《はんえり》の掛かった銘撰《めいせん》の半纏《はんてん》を着て、絹のはでな前掛を胸高《むなだか》に締めて、右の手を畳に衝《つ》いて、体を斜にして据わっていた。
琥珀色《こはくいろ》を帯びた円い顔の、目の縁《ふち》が薄赤い。その目でちょいと花房を見て、直ぐに下を向いてしまった。Cliente《クリアント》 としてこれに対している花房も、ひどく媚《こび》のある目だと思った。
「寝台に寝させましょうか」
と、附いて来た佐藤が、知れ切った事を世話焼顔に云った。
「そう」
若先生に見て戴《いただ》くのだからと断って、佐藤が女に再び寝台に寝ることを命じた。女は壁の方に向いて、前掛と帯と何本かの紐《ひも》とを、随分気長に解いている。
「先生が御覧になるかも知れないと思って、さっきそのままで待っているように云っといたのですが」
と、佐藤は言分けらしくつぶやいた。掛布団もない寝台の上でそのまま待てとは女の心を知らない命令であったかも知れない。
女は寝た。
「膝《ひざ》を立てて、楽に息をしてお出《いで》」
と云って、花房は暫く擦《す》り合せていた両手の平を、女の腹に当てた。そしてちょいと押えて見たかと思うと「聴診器を」と云った。
花房は佐藤の卓の上から取って渡す聴診器を受け取って、臍《へそ》の近処に当てて左の手で女の脈を取りながら、聴診していたが「もう宜《よろ》しい」と云って寝台を離れた。
女は直ぐに着物の前を掻き合せて、起き上がろうとした。
「ちょっとそうして待っていて
前へ
次へ
全11ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング