目下ブレエメンの港なる大商店に奉公し居る男と結婚の約束を為し居り、遠からず彼地に赴く筈に候。火曜日には雨の為に妻は終日在宅せし由に候。此日には小生の参り居りし田舎も雨にて困りしことを記憶致し候。次は水曜日に候。此日妻はフリツチイを連れて夕方動物園に参り候。動物園には其頃黒人参り居り候。此黒人をば後九月になりて小生も一見致し候。友人ルウドルフ・リツトネル夫婦、小生を誘ひて日曜日の晩に参り候。妻は水曜日の事を思ひ、其時同行を拒み候。妻の話に依れば、彼水曜日の晩只一人にて黒人の中に取残されし時程恐ろしかりし事は生涯無かりし由申候。何故一人にて取残されしかと云ふに、そはフリツチイが忽然《こつぜん》隠れ去りし故に候。此手紙は最後の手紙なればフリツチイの事を悪様《あしざま》に記さむは不本意に候へども、此事実は記さざるを得ず候。フリツチイに対して此処にてしかと申残したき事有之候。若し今の儘にて行を改めざる時は、ブレエメンに在る許嫁《いひなづけ》の良人は定めて不幸に感ずるならむと存じ候。彼日フリツチイは某君《なにがしくん》と小生の妻を捨ておきて、何《いづ》れへか立去りし由に候。某君は小生の熟知し居る人
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