にて妻子もある者なるに、不都合と存じ候へども、ここに姓名を記す事丈は遠慮致す可く候。水曜日の晩は夏の末に有勝なる霧深き晩なりし由に候。斯様なる晩には小生も動物園にて出会ひしことありしが、芝生の上に灰色の靄立ち罩《こ》め、燈火《ともしび》の光之に映り居りしを見しこと有之候。思ふに妻が一人にて取残されしは斯かる夕なりしならむと存じ候。妻は斯かる夕彼の黒き髯|簇《むらが》り生ぜる、赤き眼の驚くべく輝ける大男共の群に取残されしものに候。妻はフリツチイの帰を待つこと二時間なりしに、遂に帰り来らずして、動物園の門を閉づべき時刻となり、已むを得ず帰り来りし由に候。此事実は小生が帰宅して直ちに妻の臥所の縁に腰を掛け居りし時、妻の物語りし所に候。其時妻は小生の頸に抱《いだ》き付き震ひ居り、両眼潤み居り候。其時は妻も今日の如き事あるべしとは夢にも知らず、小生も亦当時何事も知らざりしものにて候。若し小生が妻の妊娠し居ることを知り居たりしならば、仮令《たとへ》実父の許に帰り候とも、妻が霧深き夕妹を連れて動物園に行く如きことをば許さざりしならむと存じ候。何故と云ふに、妊娠中は些細なる事をも冒険と覚悟すべきことに
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