せて私語《さゝや》き居候。小生の借家の差配人は平素目を掛け居る者にて、昨年のクリスマスにも機械の破損せし懐中時計を子供の玩弄物《おもちや》に致すやうにと贈り遣りしことあるものなるに、昨日《さくじつ》門口にて出逢ひし時、可笑《をか》しさを耐《こら》へ居る如き顔付きを致し候。召使ひ居候下女は何か可笑しさに耐《た》へぬ如く殆ど酒に酔《ゑ》ひたる人かと見ゆる様子を致居候。町の曲り角なる荒物屋の主人は、小生が通り過ぐる毎に後を見送りしこと三四度にして、小生の通り過ぐる時、店に在りし知らぬ老婦人に向ひて、あの男なりと、小生を指さし示し候。斯の如き有様故、此無根の風説の世間に伝はることの速さは想像の外に候。小生の平素全く知らざる人にして、何所《いづこ》より聞き知りしか、此風説を聞き知り居る者有之候。一昨日電車にて宅に帰り候時、車内にて老婆三人話し居るを聞くに、其話は小生の身の上に候。小生の名を称へ居るを明白に聞取候。斯様なる次第故、之に対して小生の為すべき決心は如何なるを至当とすべきか。小生とても有りと有ゆる人に向ひて、ハンベルヒの『自然に於ける不思議』を読め、リムビヨツクの『生れたる子の母の見し物
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