立派なる役人にて、今一人はトリエスト生れにて妻の里の部屋を借り居る医科の学生なりしが、青年の美男子に候。此二人の申込を拒絶せしに依りて思ふに、妻は富めるにもあらず、美しくもあらざる小生の約束を重んじて、永き年月《としつき》を待ち居りしこと疑ひなかるべく候。世の人は七年間小生の為に辛抱せし妻が、一朝にして小生を欺きしもののやう風聞致し候へども、小生は斯かることは信じ難く候。世の人は智慧足らず、人の不幸を見聞することを喜ぶ者なる故、小生の心中を察しくれざるものと思はれ候。併し此書状を見たる上は、世の人も従来の判断の誤りなりしことを知り、妻の貞婦なることを知りて、小生の自殺を憐み、自殺せずともあるべかりしものをと申すならむと存じ候。さりながら小生より思へば此自殺は必要に候。何故と申すに、小生の生存し居る限は、彼等の嘲笑は止む時有之るまじく候。世の人の皆嘲笑を事とするが中に、只一人は高尚なる思想より小生の心中を察しくれし者有之候。そは老医師ワルテル・ブラウネル氏に有之候。医師は小生に生れし子を見せし時、決して驚き給ふな、又夫人の興奮する如きことを為《な》し給ふな、斯様なることは世間に其類少から
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