なり居り、矢張り妻の臥所《ふしど》の側なる揺籃の内に、是も眠り居り候。此手紙を書き終り候はば、小生は妻子の眠り居る室に行き、二人の目を醒さぬやうに静に二人に接吻して此家を立ち出づべく考へ居り候。斯かる些末なる事を精《くは》しく認め置き候は、此手紙を読む人の小生を狂人と思ふが如きことありては遺憾なる故、小生が虚心平気に将来の為を思ひ静に死に就く者なることを証明せむが為に候。此手紙を書き終り候はば、夜の暗きに乗じて人跡絶えたる町をドルンバハに向つてずつと先まで歩み行く考に候。此道は新婚の頃妻と二人にて屡々散歩に行きし道に候。此道の行手には森あれば、其森に行く考に候。此手紙は熟慮したる上にて定めたるものに候。小生の精神の確かなることは是等にて察せられ度候。小生の名はアンドレアス、タアマイエルと申候。当年三十四歳に相成候。墺太利《オオストリア》帝国の貯蓄銀行の役員を勤め居り、ヘルナルゼル町六十四番地に住し居り候。小生の結婚せしは四年前に候。妻は娶りしより前七年間の近附にて、小生を愛し、小生の娶るを待つとて結婚を申込みし者を二人まで却《しりぞ》けしこと有之候。其一人は千八百グルデンの俸給を受くる
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