著述『母の物を見ることに依つて生れし子の母の見し物に似る現象に就いて』と云ふ書の十九頁にも、似寄の事件有之候。此書は千八百四十六年バアゼルの出版に候。或婦人の生みたる子の片頬《かたほ》に大いなる赤き痣ありしに、其母の物語る所によれば、其女の住みし家の向ひの家、産の二三週前に焼けし由に候。只今手紙を認め候時、小生はリムビヨツクの著書を目前に開き居り、筆を執る前にも種々読み試み候。此一書の中には尚|数多《あまた》の学術上に証明せられたる似寄の事件記載しあり候。是等を見る時は、小生の妻《さい》が貞操を守りし者なること十分に証明せらるるものと存ぜられ候。嗚呼我が愛する妻よ、御身は小生が先立ちて死することを許さる可く候。何故《なにゆゑ》と云ふに、小生の死するは世間の人の御身を嘲り笑ふを見るに忍びざるが為に候。小生の遺書一度世に公にせらるるに至らば、世の人の御身を笑ふことは止み申すべく候。此遺書を発見する人は、小生が之を認め候時、傍《かたはら》の室にて妻の安眠し居たりしことを承知せられ度候。良心に責めらるる如き人は斯《かく》の如く安眠することはあらじと存じ候。妻の生みし我子は、生れてより十四日目に
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