も、三角同盟の制裁は依然としていて、児島と僕とは旧阿蒙《きゅうあもう》であった。
 この歳は別に書く程の事もなくて暮れた。

      *

 十七になった。
 この歳にお父様が、世話をする人があって、小菅《こすげ》の監獄署の役人になられた。某省の属官をしておられたが、頭が支《つか》えて進級が出来ない。監獄の役人の方は、官宅のようなものが出来ていて、それに住めば、向島の家から家賃があがる。月給も少し好い。そこで意を決して小菅へ越されたのである。僕は土曜日に小菅へ行って、日曜日の晩に下宿に帰ることになった。
 僕は依然として三角同盟の制裁の下に立っているのである。休日の前日が来て、小菅の内へ帰る度に通新町を通る。吉原の方へ曲る角の南側は石の玉垣のある小さい社で、北側は古道具屋である。この古道具屋はいつも障子が半分締めてある。その障子の片隅に長方形の紙が貼ってあって、看板かきの書くような字で「秋貞」と書いてある。小菅へ行く度に、往《いき》にも反《かえり》にも僕はこの障子の前を通るのを楽にしていた。そしてこの障子の口に娘が立っていると、僕は一週間の間何となく満足している。娘がいないと、僕は一週間の間何となく物足らない感じをしている。
 この娘はそれ程|稀《まれ》な美人というのではないかも知れない。只薄紅の顔がつやつやと露が垂《したた》るようで、ぱっちりした目に形容の出来ない愛敬がある。洗髪を島田に結っていて、赤い物なぞは掛けない。夏は派手な浴衣《ゆかた》を着ている。冬は半衿《はんえり》の掛かった銘撰《めいせん》か何かを着ている。いつも新しい前掛をしているのである。
 僕はこの頃から、ずっと後に大学を卒業するまで、いや、そうではない、それから二年目に洋行するまで、この娘を僕の美しい夢の主人公にしていたに相違ない。春のなまめかしい自然でも、秋の物寂しい自然でも、僕の情緒を動かすことがあると、ふいと秋貞という名が唇に上る。実に馬鹿らしい訣《わけ》である。何故というのに、秋貞というのはその店に折々見える、紺の前掛をした、痩《や》せこけた爺さんの屋号と名前の頭字とに過ぎないのである。この娘は何という娘だということをも僕は知らないのである。しかし不思議と云えば不思議である。僕が顔を覚えてから足掛五年の間、この娘は娘でいる。僕の空想の中に娘でいるのは不思議ではないが、この娘が実在の娘でいるのは不思議である。僕の例の美しい夢の中で、若しやこの娘は、僕が小菅へ往復する人力車を留めて、話をし掛けるのを待っているのではあるまいかとさえ思ったこともある。しかしまさか現《うつつ》の意識でそれを信ずる程の詩人にもなれなかった。余程年が立ってから、僕は偶然この娘の正体を聞いた。この娘はじきあの近所の寺の住職が為送《しおくり》をしていたのであった。
 つまらない話の序《ついで》に、も一つ同じようなのを話そう。お父様の住まってお出《いで》になる、小菅の官舎の隣に十三ばかりの娘がある。それが琴の稽古をしている。師匠は下谷の杉勢というのであるが、遠方の事だから、いつも代稽古の娘が来る。お母様が聞いていらっしゃるに、隣の娘が弾《ひ》いても、代稽古に来る娘が弾いても、余り好い音《ね》がしたことはない。それが或日まるで変った音がした。言って見れば、今までのが寝惚《ねぼ》けた音なら、今度のは目の醒《さ》めた音である。お母様が隣の奥さんにその事を話すと、あれは琴を商売にしている人ではない。杉勢の弟子で、五軒町に住んでいる娘である。代稽古に来る娘が病気なので、好意で来てくれたということであった。そのうちその琴の上手な娘が、お母様に褒《ほ》められたのを聞いて、それではいつか往って弾いて聞かせようと云った。
 それから折々内に寄るので、僕が休日に帰っていて落ち合うこともある。子供の時に Hydrocephalus ででもあったかというような頭の娘で、髪が稍《や》や薄く、色が蒼《あお》くて、下瞼《したまぶた》が紫色を帯びている。性質は極勝気《ごくかちき》である。琴はいかにも virtuoso の天賦を備えている。これが若し琴を以て身を立てようとする人であったら、師匠に破門せられて、別に一流を起すという質《たち》かも知れない。
 この娘が段々お母様と親密になって、話の序に、遠廻しのようで、実は頗る大胆に、僕の妻になりたいということをほのめかすのである。お母様が、倅《せがれ》も卒業すれば、是非洋行をさせねばならないが、卒業試験の点数次第で、官費で遣られるか、どうだか知れないと話すと、わたくしがお金を持っていれば、有るだけ出して学資にして戴きとうございますなどという。
 お母様にもこの娘の怜悧《りこう》なのが気に入る。そこで身元などを問い合わせて見られる。このお麗《れい》さんという娘は可なりの役を勤めていた士族の娘で、父親に先立たれて、五軒町の借屋に母親と一しょに住んでいる。しかし妙なことには、その家にお兄いさんというのがいて、余程お人好と見えて、お麗さんに家来のように使われている。それが実は壻《むこ》養子に来たものだということである。壻養子に来たのではあるが、お麗さんはその人の妻になりたくないから、家をその人に遣って、自分はどこかへ娵《よめ》に行きたいと云っている。そしてお麗さんの望は、少くも学士位な人を夫に持ちたいというのだそうだ。そこで僕がその選に中《あた》ったという訣《わけ》である。
 お母様にはそのお兄いさんというもののいるのが気に入らない。僕はこの怜悧で活溌な娘が嫌ではないが、早く妻を持とうという気はないのだから、この話はどうなるともなしに、水が砂地に吸い込まれるように、立消《たちぎえ》になってしまった。
 これは性欲問題では勿論無い。そんならと云って、恋愛問題とも云われまい。言わば起り掛かって止んだ縁談に過ぎないが、思い出したから書いて置く。お麗さんは望どおりに或る学士の奥さんになって横浜あたりにいるということである。

      *

 十八になった。
 夏休の間の出来事である。卒業試験が近くなるので、どこかいつもより静かな処にいて勉強したいと思った。さいわい向島の家が借手がなくて明いている。そこへ書物を持って這入《はい》る。お母様が二三日来ていて、世話をして下さる。しかし材料さえ集めて置いて貰えば、僕が自炊をするというのである。お母様は覚束《おぼつか》ないと仰ゃる。
 この話を隣の植木屋が聞いた。お父様が畠に物を作る相談をせられるので、心安くなっていた植木屋である。この植木屋のお上さんが、親切にもこういう提議をした。植木屋にお蝶という十四になる娘がある。体は十六位かと見えるように大きいが、まるで子供である。煮炊《にたき》もろくな事は出来ない。しかし若旦那よりは上手であろう。これを貸してくれようと云うのである。お母様は同意なすった。僕も初から女を置くということには反対していたが、鼻を垂らして赤ん坊を背負っていたのを知っている、あのお蝶なら好かろうというので、同意した。
 お蝶は朝来て夜帰る。むくむくと太った娘で、大きな顔に小さな目鼻が附いている。もう鼻は垂らさない。島田に結っている。これは僕のお召使になるというので、自ら好んで結って貰ったのだそうだが、大きな顔の上に小さい島田髷が載っている工合は随分可笑しい。
 飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくて蛾《が》の方だなどと思っている。見るともなしに顔を見る。少し竪《たて》に向いて附いた眉の下に、水平な目があるので、内眦《めがしら》の処が妙にせせこましくなっている。俯向《うつむ》いてその目で僕を見ると、滑稽を帯びた愛敬がある。
 お蝶は好く働く。僕は飯の時に給仕をさせるだけで、跡は何をしていようと構わない。お菜は何にしましょうと云って来ると、何でも好いから、お前の内で拵《こしら》えるような物を拵えろと云う。そんな風で二週間程立った。
 或日今年は親類の内に往っていると聞いていた尾藤裔一が来た。僕は学科の本に読み厭《あ》きていたので、喜んで話しかけたが、裔一はひどく萎《しお》れている。僕は不審に思った。
「君どうかしているようじゃないか」
「僕は本科に這入《はい》ることは廃《や》めた」
「どうして」
「実は君には逢わずに国へ立ってしまおうと思ったのだ。ところが、親父《おやじ》に暇乞《いとまごい》に来て聞けば、君がいるというので、つい逢いたくなって遣って来た」
 お蝶が茶を持って出た。裔一は茶を一息に飲んで話を続けた。裔一の学資は父親の手から出ていない。木挽町《こびきちょう》に店を出している伯父が出していたのである。その伯父の所帯が左前になったので、いよいよ廃学をしなくてはならないようになった。そこで国へ帰って小学校の教員でもしようかと思っている。しかし教員になるにしても、その旁《かたわら》何か遣りたい。西洋の学問をするには、素養が不十分な上に、新しい本を買うのは容易でない。そこで一時の凌《しの》ぎにと云って、伯父の出してくれた金の大部分は漢籍にしてしまった。それを持って国へ引込んで読むというのである。
 僕は気の毒でたまらなかった。しかし何とも言いようがない。意味のない慰めなんぞを言うと、裔一は怒り兼ない。為方《しかた》なしに黙っていた。
 間もなく裔一は帰ると云った。そして立ちそうにして立たずに、頗《すこぶ》る唐突にこんな事を言い出した。
「僕の伯父の立ち行かなくなったのは、元はおばの為めだ」
「おばさんはどんな人なんだ」
「伯父が一人でいたときの女中だ」
「ふむ」
「それがどうしても離れないのだ。女房に内助なんということを要求するのは無理かも知れないが、訣の分らない奴が附いていて離れないというものは、人生の一大不幸だなあ。左様なら」
 裔一はふいと帰って行った。
 僕はあっ気に取られて跡を見送った。戸口に掛けてある簾《すだれ》を透して、冠木門《かぶきもん》を出て行く友の姿が見える。白地の浴衣《ゆかた》に麦稈帽《むぎわらぼう》を被った裔一は、午《ひる》過の日のかっかっと照っている、かなめ垣の道に黒い、短い影を落しながら、遠ざかって行く。
 裔一は置土産に僕を諷諫《ふうかん》したのである。僕は一寸腹が立った。何もその位な事を人に聞かなくても好いと思う。それも人による。万事に掛けて自分よりは鈍いように思っていた裔一には、出過ぎた話だと思う。その上お蝶が何だ。こっちはまるで女とも何とも思っていないのではないか。人を識《し》らないのだ。寃《えん》もまた甚《はなはだ》しいと思ったのである。
 机に向いて読み掛けていた本を開ける。どうも裔一の云ったことが気になる。僕はお蝶を何とも思ってはいない。しかしお蝶はどうだろう。僕とお蝶とは殆ど話というものをしないから、お蝶が何と云ったというような記憶は無い。何か記憶に留まった事はないかと思うと、ふいと今朝の事を思い出す。今朝散歩に出た。出るときお蝶は蚊屋《かや》を畳み掛けていた。三十分も歩いたと思って帰って見ると、お蝶は畳んだ蚊屋を前に置いて、目は空《くう》を見てぼんやりしてすわっていた。もう疾《とっ》くに片付けてしまっているだろうと思ったのに、意外であった。その時僕は少し懶《なま》けて来たなと思った。あの時お蝶は三十分が間も何を思っていたのだろう。こう思って、僕は何物をか発見したような心持がした。
 この時から僕はお蝶に注意するようになった。別な目でお蝶を見る。飯の給仕をしてくれる時に、彼の表情に注意する。注意して見ると、こういう事がある。初の頃は俯向いてはいたが、度々僕の顔を見ることがあった。それがこの頃は殆ど全く僕の顔を見ない。彼の態度は確に変って来たのである。
 僕は庭なぞを歩くとき、これまでは台所の前を通っても、中でことこと言わせているのを聞きながら、其方《そっち》を見ずに通ったのが、今度は見て通る。物なんぞを洗い掛けて手を休めて、空《くう》を見て、じっとしているのが目に附く。何か考えているようである。
 又飯の給仕に来る。僕の観察の目が
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