ぐうぐう寝る。僕は飯を食って来る。三十分になる。八時には日課が始まるのである。古賀を起す。
「何時だ」
「七時三十分だ」
「まだ早い」
十五分前になる。僕は前晩に時間表を見て揃《そろ》えて置いたノオトブックとインクとを持って出掛けて、古賀を起す。
「何時だ」
「十五分前だ」
古賀は黙って跳《は》ね起きる。紙と手拭とを持って飛び出す。これから雪隠《せっちん》に往って、顔を洗って、飯を食って、教場へ駈け附けるのである。
古賀|鵠介《こくすけ》の平常の生活はこんな風である。折々古賀の友達で、児島十二郎というのが遊びに来る。その頃絵草紙屋に吊るしてあった、錦絵の源氏の君のような顔をしている男である。体じゅうが青み掛かって白い。綽号《あだな》を青大将というのだが、それを言うと怒る。尤《もっと》もこの名は、児島の体の或る部分を浴場《ふろ》で見て附けた名だそうだから、怒るのも無理は無い。児島は酒量がない。言語も挙動も貴公子らしい。名高い洋学者で、勅任官になっている人の弟である。十二人目の子なので、十二郎というのだそうだ。
どうして古賀と児島とが親しくしているだろうと、僕は先ず疑問を起した。さて段々観察していると、触接点がある。
古賀は父親をひどく大切にしている。その癖父親は鵠介の弟の神童じみたのが夭折《ようせつ》したのを惜んで、鵠介を不肖の子として扱っているらしい。鵠介は自分が不肖の子として扱われれば扱われるだけ、父親の失った子の穴填《あなうめ》をして、父親に安心させねばならないように思うのである。児島は父親が亡くなって母親がある。母親は十何人という子を一人で生んだのである。これも十三人目の十三郎というのが才子で、その方が可哀がられているらしい。しかし十三郎は才子である代りに、稍《や》や放縦で、或る新聞縦覧所の女に思われた為めに騒動が起って新聞の続物に出た。女は元と縦覧所を出している男の雇女で、年の三十も違う主人に、脅迫せられて身を任せて、妾《めかけ》の様になっていた。それが十三郎を慕うので、主人が嫉妬から女を虐遇する。女は十三郎に泣き附く。その十三郎が勅任官の家の若殿だから、新聞の好材料になったのである。その為めに、十三郎は或る立派な家に養子に貰われていたのが破談になる。母親は十三郎の為めに心痛する。十二郎はその母親の心を慰めようと、熱心に努めているのである。
こんな事をだらだらと書くのは、僕の性欲的生活に何の関係もないようだが、実はそうでない。これが重大な関係を有している。
僕は古賀と次第に心安くなる。古賀を通じて児島とも心安くなる。そこで三角同盟が成立した。
児島は生息子《きむすこ》である。彼の性欲的生活は零《ゼロ》である。
古賀は不断酒を飲んでぐうぐう寝てしまう。しかし月に一度位|荒日《あれび》がある。そういう日には、己《おれ》は今夜は暴れるから、君はおとなしくして寝ろと云い置いて、廊下を踏み鳴らして出て行く。誰かの部屋の外から声を掛けるのに、戸を締めて寝ていると、拳骨《げんこつ》で戸を打ち破ることもある。下の級の安達という美少年の処なぞへ這入り込むのは、そういう晩であろう。荒日には外泊することもある。翌日帰って、しおしおとして、昨日は獣になったと云って悔んでいる。
児島の性欲の獣は眠っている。古賀の獣は縛ってあるが、おりおり縛《いましめ》を解いて暴れるのである。しかし古賀は、あたかも今の紳士の一小部分が自分の家庭だけを清潔に保とうとしている如くに、自分の部屋を神聖にしている。僕は偶然この神聖なる部屋を分つことになったのである。
古賀と児島と僕との三人は、寄宿舎全体を白眼に見ている。暇さえあれば三人集まる。平生性欲の獣を放し飼にしている生徒は、この triumviri の前では寸毫《すんごう》も仮借せられない。中にも、土曜日の午後に白足袋を穿《は》いて外出するような連中は、人間ではないように言われる。僕の性欲的生活が繰延になったのは、全くこの三角同盟のお陰である。後になって考えて見れば、若《も》しこの同盟に古賀がいなかったら、この同盟は陰気な、貧血性な物になったのかも知れない。幸に荒日を持っている古賀が加わっていたので、互に制裁を加えている中にも、活気を失わないでいることを得たのであろう。
或る土曜の事である。三人で吉原を見に行こうということになる。古賀が案内に立つ。三人共小倉袴に紺足袋で、朴歯《ほおば》の下駄をがらつかせて出る。上野の山から根岸を抜けて、通新町を右へ折れる。お歯黒|溝《どぶ》の側を大門《おおもん》に廻る。吉原を縦横に濶歩《かっぽ》する。軟派の生徒で出くわした奴は災難だ。白足袋がこそこそと横町に曲るのを見送って、三人一度にどっと笑うのである。僕は分れて、今戸《いまど》の渡《わたし》を向島へ渡った。
同じ歳の夏休は、やはり去年どおりに、向島の親の家で暮らした。その頃はまだ、書生が暑中に温泉や海浜へ行くということはなかった。親を帰省するのが精々であった。僕のような、判任官の子なんぞは、親の処に帰って遊んでいるより上の愉快を想像することは出来なかったのである。
相変らず尾藤裔一と遊ぶ。裔一の母親はもういない。悪い噂《うわさ》が立ったので、榛野は免職になって国へ帰る。尾藤の母親も国の里方へ返されたのである。
裔一と漢文の作り競《くら》をする。それが困《こう》じて、是非本当の漢文の先生に就いて遣《や》って見たいということになる。
その頃向島に文淵《ぶんえん》先生という方がおられた。二町程の田圃を隔てて隅田川の土手を望む処に宅を構えておられる。二階建の母屋に、庭の池に臨んだ離座敷の書斎がある。土蔵には唐本が一ぱい這入っていて、書生が一抱ずつ抱えては出入《だしいれ》をする。先生は年が四十二三でもあろうか。三十位の奥さんにお嬢さんの可哀いのが二三人あって、母屋《おもや》に住んでおられる。先生は渡廊下で続いている書斎におられる。お役は編修官。月給は百円。手車で出勤せられる。僕のお父様が羨ましがって、あれが清福というものじゃと云うておられた。その頃は百円の月給で清福を得られたのである。
僕はお父様に頼んで貰って、文淵先生の内へ漢文を直して貰いに行くことにした。書生が先生の書斎に案内する。どんな長い物を書いて持って行っても、先生は「どれ」と云って受け取る。朱筆を把《と》る。片端から句読《くとう》を切る。句読を切りながら直して行く。読んでしまうのと直してしまうのと同時である。それでも字眼《じがん》なぞがあると、標《しるし》を附けて行かれるから、照応を打ち壊されることなぞはめったに無い。度々行くうちに、十六七の島田|髷《まげ》が先生のお給仕をしているのに出くわした。帰ってからお母様に、今日は先生の内の一番大きいお嬢さんを見たと話したら、それはお召使だと仰ゃった。お召使というには特別な意味があったのである。
或日先生の机の下から唐本が覗いているのを見ると、金瓶梅《きんぺいばい》であった。僕は馬琴の金瓶梅しか読んだことはないが、唐本の金瓶梅が大いに違っているということを知っていた。そして先生なかなか油断がならないと思った。
*
同じ歳の秋であった。古賀の機嫌《きげん》が悪い。病気かと思えばそうでもない。或日一しょに散歩に出て、池の端を歩いていると、古賀がこう云った。
「今日は根津へ探検に行くのだが、一しょに行くかい」
「一しょに帰るなら、行っても好い」
「そりゃあ帰る」
それから古賀が歩きながら探険の目的を話した。安達が根津の八幡楼《やわたろう》という内のお職と大変な関係になった。女が立て引いて呼ぶので、安達は殆ど学課を全廃した。女の処には安達の寝巻や何ぞが備え附けてある。女の持物には、悉《ことごと》く自分の紋と安達の紋とが比翼《ひよく》にして附けてある。二三日安達の顔を見ないと癪《しゃく》を起す。古賀がどんなに引き留めても、女の磁石力が強くて、安達はふらふらと八幡楼へ引き寄せられて行く。古賀は浅草にいる安達の親に denunciate した。安達と安達の母との間には、悲痛なる対話があった。さて安達の寄宿舎に帰るのを待ち受けて、古賀が「どうだ」と問うた。安達は途方に暮れたという様子で云った。「今日は母に泣かれて困った。母が泣きながら死んでしまうというのを聞けば、気の毒ではある。しかし女も泣きながら死んでしまうというから、為方《しかた》がない」と云ったというのである。
古賀はこの話をしながら、憤慨して涙を翻《こぼ》した。僕は歩きながらこの話を聞いて、「なる程非道い」と云った。そうは云ったが、頭の中では憤慨はしない。恋愛というものの美しい夢は、断えず意識の奥の方に潜んでいる。初て梅暦を又借をして読んだ頃から後、漢学者の友達が出来て、剪燈余話《せんとうよわ》を読む。燕山外史《えんざんがいし》を読む。情史を読む。こういう本に書いてある、青年男女の naively な恋愛がひどく羨ましい、妬《ねた》ましい。そして自分が美男に生れて来なかった為めに、この美しいものが手の届かない理想になっているということを感じて、頭の奥には苦痛の絶える隙《ひま》がない。それだから安達はさぞ愉快だろう、縦令《たとい》苦痛があっても、その苦痛は甘い苦痛で、自分の頭の奥に潜んでいるような苦い苦痛ではあるまいという思遣《おもいやり》をなすことを禁じ得ない。それと同時に僕はこんな事を思う。古賀の単純極まる性質は愛す可きである。しかし彼が安達の為めに煩悶《はんもん》する源を考えて見れば、少しも同情に値しない。安達は寧《むし》ろ不自然の回抱《かいほう》を脱して自然の懐《ふところ》に走ったのである。古賀がこの話を児島にしたら、児島は一しょに涙を翻したかも知れない。いかにも親孝行はこの上もない善い事である。親孝行のお蔭で、性欲を少しでも抑えて行かれるのは結構である。しかしそれを為《な》し得ない人間がいるのに不思議はない。児島は性欲を吸込の糞坑《ふんこう》にしている。古賀は性欲を折々掃除をさせる雪隠の瓶《かめ》にしている。この二人と同盟になっている僕が、同じように性欲の満足を求めずにいるのは、果して僕の手柄であろうか。それは頗《すこぶ》る疑わしい。僕が若し児島のような美男に生れていたら、僕は児島ではないかも知れない。僕は神聖なる同盟の祭壇の前で、こんな heretical な思議を費していたのである。
僕は古賀の跡に附いて、始て藍染橋《あいぞめばし》を渡った。古賀は西側の小さい家に這入って、店の者と話をする。僕は閾際《しきいぎわ》に立っている。この家は引手茶屋である。古賀は安達が何日《いくか》と何日《いくか》とに来たかというような事を確めている。店のものは不精々々に返辞をしている。古賀は暫《しばら》くしてしおしおとして出て来た。僕等は黙って帰途に就いた。
安達は程なく退学させられた。一年ばかり立ってから、浅草区に子守女や後家なぞに騒がれる美男の巡査がいるという評判を聞いた。又数年の後、古賀が浅草の奥山で、唐桟《とうざん》づくめの頬のこけた凄《すご》い顔の男に逢った。奥山に小屋掛けをして興行している女の軽技師《かるわざし》があって、その情夫が安達の末路であったそうだ。
*
十六になった。
僕はその頃大学の予備門になっていた英語学校を卒業して、大学の文学部に這入った。
夏休から後は、僕は下宿生活をすることになった。古賀や児島と毎晩のように寄席《よせ》に行く。一頃悪い癖が附いて寄席に行かないと寝附かれないようになったこともある。講釈に厭《あ》きて落語を聞く。落語に厭きて女義太夫をも聞く。寄席の帰りに腹が減って蕎麦《そば》屋に這入ると、妓夫が夜鷹《よたか》を大勢連れて来ていて、僕等はその百鬼夜行の姿をランプの下に見て、覚えず戦慄《せんりつ》したこともある。しかし「仲までお安く」という車なぞにはとうとう乗らずにしまった。
多分生息子で英語学校を出たものは、児島と僕と位なものだろう。文学部に這入ってから
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