、覗いて見た。まだ御城下にも辻便所などはないので、誰でも道ばたでしたのである。そして誰のも小さいので、画にうそがかいてあると判断して、天晴《あっぱれ》発見をしたような積でいたのである。
これが僕の可笑しな絵を見てから実世界の観察をした一つである。今一つの観察は、少し書きにくいが、真実の為めに強いて書く。僕は女の体の或る部分を目撃したことが無い。その頃御城下には湯屋なんぞはない。内で湯を使わせてもらっても、親類の家に泊って、余所《よそ》の人に湯を使わせてもらっても、自分だけが裸にせられて、使わせてくれる人は着物を着ている。女は往来で手水《ちょうず》もしない。これには甚だ窮した。
学校では、女の子は別な教場で教えることになっていて、一しょに遊ぶことも絶《たえ》て無い。若し物でも言うと、すぐに友達仲間で嘲弄《ちょうろう》する。そこで女の友達というものはなかった。親類には娘の子もあったが、節句だとか法事だとかいうので来ることがあっても、余所行の着物を着て、お化粧をして来て、大人しく何か食べて帰るばかりであった。心安いのはない。只内の裏に、藩の時に小人《こびと》と云ったものが住んでいて、その娘に同年位なのがいた。名は勝《かつ》と云った。小さい蝶々髷《ちょうちょうまげ》を結っておりおり内へ遊びに来る。色の白い頬っぺたの膨《ふく》らんだ子で、性質が極素直であった。この子が、気の毒にも、僕の試験の対象物にせられた。
五月雨《さみだれ》の晴れた頃であった。お母様は相変らず機を織っていらっしゃる。蒸暑い午《ひる》過で、内へ針為事に来て、台所の手伝をしている婆あさんは昼寝をしている。お母様の梭《ひ》の音のみが、ひっそりしている家に響き渡っている。
僕は裏庭の蔵の前で、蜻※[#「むしへん」に「延」、19−11]《とんぼ》の尻に糸を附けて飛ばせていた。花の一ぱい咲いている百日紅《さるすべり》の木に、蝉《せみ》が来て鳴き出した。覗いて見たが、高い処なので取れそうにない。そこへ勝が来た。勝も内のものが昼寝をしたので、寂しくなって出掛けて来たのである。
「遊びましょうやあ」
これが挨拶である。僕は忽《たちま》ち一計を案じ出した。
「うむ。あの縁から飛んで遊ぼう」
こう云って草履を脱いで縁に上った。勝も附いて来て、赤い緒の雪踏《せった》を脱いで上った。僕は先ず跣足《はだし》で庭の苔《こけ》の上に飛び降りた。勝も飛び降りた。僕は又縁に上って、尻を※[#「※」は「寒のしたのちょんちょんのかわりに衣」、19−18]《まく》った。
「こうして飛ばんと、着物が邪魔になって行《い》けん」
僕は活溌に飛び降りた。見ると、勝はぐずぐずしている。
「さあ。あんたも飛びんされえ」
勝は暫く困ったらしい顔をしていたが、無邪気な素直な子であったので、とうとう尻を※[#「※」は「寒のしたのちょんちょんのかわりに衣」、20−4]って飛んだ。僕は目を円くして覗いていたが、白い脚《あし》が二本白い腹に続いていて、なんにも無かった。僕は大いに失望した。Operaglass で ballet を踊る女の股《また》の間を覗いて、羅《うすもの》に織り込んである金糸の光るのを見て、失望する紳士の事を思えば、罪のない話である。
その歳の秋であった。
僕の国は盆踊の盛な国であった。旧暦の盂蘭盆《うらぼん》が近づいて来ると、今年は踊が禁ぜられるそうだという噂《うわさ》があった。しかし県庁で他所産《たしょうまれ》の知事さんが、僕の国のものに逆うのは好くないというので、黙許するという事になった。
内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かっていて、夕方になると、踊の囃子《はやし》をするのが内へ聞える。
踊を見に往《い》っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。そこで草履を穿《は》いて駈け出した。
これまでも度々見に往ったことがある。もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆|頭巾《ずきん》で顔を隠して踊るのであるから、侍《さぶらい》の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは百眼《ひゃくまなこ》というものを掛けている。西洋でする Carneval は一月で、季節は違うが、人間は自然に同じような事を工夫し出すものである。西洋にも、収穫の時の踊は別にあるが、その方には仮面を被《かぶ》ることはないようである。
大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。
僕は踊を見ているうちに、覆面の連中の話をするのがふいと耳に入った。識《し》りあいの男二人と見える。
「あんたあゆうべ愛宕《あたご》の山へ行きんさったろうがの」
「※[#「※」は「ごんべんに虚」、21−11]《うそ》を言いんさんな」
「いいや。何でも行きんさったちゅう事じゃ」
こういうような問答をしていると、今一人の男が側から口を出した。
「あそこにゃあ、朝行って見ると、いろいろな物が落ちておるげな」
跡は笑声になった。僕は穢《きたな》い物に障《さわ》ったような心持がして、踊を見るのを止《や》めて、内へ帰った。
*
十一になった。
お父様が東京へ連れて出て下すった。お母様は跡に残ってお出《いで》なすった。いつも手伝に来る婆あさんが越して来て、一しょにいるのである。少し立てば、跡から行くということであった。多分家屋敷が売れるまで残ってお出なすったのであろう。
旧藩の殿様のお邸が向島《むこうじま》にある。お父様はそこのお長屋のあいているのにはいって、婆あさんを一人雇って、御飯を焚《た》かせて暮らしてお出になる。
お父様は毎日出て、晩になってお帰になる。僕の行く学校をも捜して下さるということであった。お父様がお出掛になると、二十《はたち》ばかりの上《かみ》さんが勝手口へ来て、前掛を膨らませて帰って行く。これは婆あさんが米を盗んで、娘に持たせて遣るのであった。後にお母様がお出になって、この事が知れて、婆あさんは逐《お》い出された。僕は余程ぼんやりした小僧であった。
一しょに遊んでくれる子供もない。家職のものの息子で、年が二つばかり下なのがいたが、初て逢った日に、お邸の池の鯉《こい》を釣ろうと云ったので、嫌《いや》になって一しょに遊ばない事にした。家扶《かふ》の娘の十二三になるのを頭《かしら》にして、娘が二三人いたが、僕を見ると遠い処から指ざしなんぞをして、※[#「※」は「くちへんに耳」、22−13]《ささや》きあって笑ったり何かする。これも嫌な女どもだと思った。
御殿のお次に行って見る。家従というものが二三人控えている。大抵|烟草《たばこ》を飲んで雑談をしている。おれがいても、別に邪魔にもしない。そこで色々な事を聞いた。
最も屡《しばし》ば話の中に出て来るのは吉原という地名と奥山という地名とである。吉原は彼等の常に夢みている天国である。そしてその天国の荘厳が、幾分かお邸の力で保たれているということである。家令はお邸の金を高い利で吉原のものに貸す。その縁故で彼等が行くと、特に優待せられるそうだ。そこで手《て》ん手《で》に吉原へ行った話をする。聞いていても半分は分らない。又半分位分るようであるが、それがちっとも面白くない。中にはこんな事をいう男がある。
「こんだあ、あんたを連れて行って上げうかあ。綺麗な女郎《じょうろ》が可哀がってくれるぜえ」
そういう時にはみんなが笑う。
奥山の話は榛野《はんの》という男の事に連帯して出るのが常になっている。家従どもは大抵|菊石《あばた》であったり、獅子鼻《ししばな》であったり、反歯《そっぱ》であったり、満足な顔はしていない。それと違って榛野というのは、色の白い、背の高い男で、髪を長くして、油を附けて、項《うなじ》まで分けていた。この男は何という役であったか知らぬが、先ず家従どもの上席位の待遇を受けて、文書の立案というような事をしていた。家従どもはこんな事を言う。
「榛野さあのように大事にして貰われれば、こっちとらも奥山へ行くけえど、銭《ぜに》う払うて楊弓《ようきゅう》を引いても、ろくに話もしてくれんけえ、ほんつまらんいのう」
榛野はこの仲間の Adonis であった。そして僕は程なくこの男のために Aphrodite たり、また Persephone たる女子《おなご》どもを見ることを得たのである。
お庭の蝉の声の段々やかましゅうなる頃であった。お父様の留守にぼんやりしていると、※[#「※」は「さんずいに日に工」、23−14]麻《くりそ》という家従が外から声を掛けた。
「しずさあ。居りんさるかあ。今からお使に行くけえ、一しょに来んされえ。浅草の観音様に連れて行って上げう」
観音様へはお父様が一度連れて行って下すったことがある。僕は喜んで下駄を引っ掛けて出た。
吾妻橋を渡って、並木へ出て買物をした。それから引き返して、中店をぶらぶら歩いた。亀の形をしたおもちゃの糸で吊したのを、沢山持って、「器械の亀の子、選《よ》り取った選り取った」などと云っている男がある。亀の首や尾や四足がぶるぶると動いている。※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−3]麻は絵草紙屋の前に立ち留まった。おれは西南戦争の錦絵を見ていると、※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−4]麻は店前《みせさき》に出してある、帯封のしてある本を取り上げて、店番の年増にこう云うのである。
「お上さん。これを騙《だま》されて買って行く奴がまだありますか。はははは」
「それでもちょいちょい売れますよ。一向つまらない事が書いてあるのでございますが。おほほほ」
「どうでしょう。本当のを売ってくれませんかね」
「御笑談《ごじょうだん》を仰ゃいます。なかなか当節は警察がやかましゅうございまして」
帯封の本には、表紙に女の顔が書いてあって、その上に「笑い本」と大字で書いてある。これはその頃絵草紙屋にあっただまし物である。中には一口噺《ひとくちばなし》か何かを書いて、わざと秘密らしく帯封をして、かの可笑しな画を欲しがるものに売るのである。
僕は子供ではあったが、問答の意味をおおよそ解した。しかしその問答の意味よりは、※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−14]麻の自在に東京詞を使うのが、僕の注意を引いた。そして※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−15]麻は何故これ程東京詞が使えるのに、お屋敷では国詞を使うだろうかということを考えて見た。国もの同志で国詞を使うのは、固《もと》より当然である。しかし※[#「※」は「さんずいに日に工」、24−17]麻が二枚の舌を使うのは、その為めばかりではないらしい。彼は上役の前で淳樸《じゅんぼく》を装うために国詞を使うのではあるまいか。僕はその頃からもうこんな事を考えた。僕はぼんやりしているかと思うと、又余り無邪気でない処のある子であった。
観音堂に登る。僕の物を知りたがる欲は、僕の目を、只真黒な格子の奥の、蝋燭《ろうそく》の光の覚束《おぼつか》ない辺に注がせる。蹲《しゃが》んで、体を鰕《えび》のように曲げて、何かぐずぐず云って祈っている爺さん婆あさん達の背後《うしろ》を、堂の東側へ折れて、おりおりかちゃかちゃという賽銭《さいせん》の音を聞き棄てて堂を降りる。
この辺には乞食が沢山いた。その間に、五色の沙《すな》で書画をかいて見せる男がある。少し広い処に、大勢の見物が輪を作って取り巻いているのは、居合ぬきである。※[#「※」は「さんずいに日に工」、25−7]麻と一しょに暫く立って見ていた。刀が段々に掛けてある。下の段になるだけ長いのである。色々な事を饒舌《しゃべ》っているが、なかなか抜かない。そのうち※[#「※」は「さんずいに日に工」、25−9]麻が、つと退《の》くから、何か分からずに附いて退いた。振り返って見れば、
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