銭を集める男が、近処へ来ていたのであった。
楊弓店のある、狭い巷《こうじ》に出た。どの店にもお白いを附けた女のいるのを、僕は珍らしく思って見た。お父様はここへは連れて来なかったのである。僕はこの女達の顔に就いて、不思議な観察をした。彼等の顔は当前《あたりまえ》の人間の顔ではないのである。今まで見た、普通の女とは違って、皆一種の stereotype な顔をしている。僕の今の詞《ことば》を以て言えば、この女達の顔は凝結した表情を示しているのである。僕はその顔を見てこう思った。何故《なぜ》皆|揃《そろ》ってあんな顔をしているのであろう。子供に好い子をお為《し》というと、変な顔をする。この女達は、皆その子供のように、変な顔をしている。眉はなるたけ高く、甚だしきは髪の生際《はえぎわ》まで吊《つ》るし上げてある。目をなるたけ大きく※[#「※」は「浄のさんずいの代わりに目」、25−17]《みは》っている。物を言っても笑っても、鼻から上を動かさないようにしている。どうして言い合せたように、こんな顔をしているだろうと思った。僕には分からなかったが、これは売物の顔であった。これは prostitution の相貌であった。
女はやかましい声で客を呼ぶ「ちいと、旦那《だんな》」というのが尤《もっとも》多い。「ちょいと」とはっきり聞えるのもあるが、多くは「ちいと」と聞える。「紺足袋の旦那」なんぞと云う奴もある。※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−4]麻は紺足袋を穿いていた。
「あら、※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−6]麻さん」
一際鋭い呼声がした。※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−7]麻はその店にはいって腰を掛けた。僕は呆《あき》れて立って見ていると、※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−7]麻が手真似で掛けさせた。円顔の女である。物を言うと、薄い唇の間から、鉄漿《かね》を剥《は》がした歯が見える。長い烟管《きせる》に烟草を吸い附けて、吸口を袖で拭いて、例の鼻から上を動かさずに、※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−9]麻に出す。
「何故拭くのだ」
「だって失礼ですから」
「榛野でなくっては、拭かないのは飲まして貰えないのだね」
「あら、榛野さんにだっていつでも拭いて上げまさあ」
「そうかね。拭いて上げるかね」
こんな風な会話である。詞が二様の意義を有している。※[#「※」は「さんずいに日に工」、26−16]麻は僕がその第二の意義に対して、何等の想像をも画《えが》き得るものとは認めていない。女も僕をば空気の如くに取り扱っている。しかし僕には少しの不平も起らない。僕はこの女は嫌であった。それだから物なんぞを言って貰いたくはなかった。
※[#「※」は「さんずいに日に工」、27−2]麻が楊弓を引いて見ないかと云ったが、僕は嫌だと云った。
※[#「※」は「さんずいに日に工」、27−3]麻は間もなく楊弓店を出た。それから猿若町《さるわかちょう》を通って、橋場の渡《わたし》を渡って、向島のお邸に帰った。
同じ頃の事であった。家従達の仲間に、銀林と云う針医がいて、折々彼等の詰所に来て話していた。これはお上のお療治に来るので、お国ものではない。江戸児《えどっこ》である。家従は大抵三十代の男であるのに、この男は四十を越していた。僕は家従等に比べると、この男が余程賢いと思っていた。
或る日銀林は銀座の方へ往くから、連れて行って遣ろうと云った。その日には用を済ませてから、銀林が京橋の側の寄席《よせ》に這入《はい》った。
昼席《ひるせき》であるから、余り客が多くはない。上品に見えるのは娘を連れた町家のお上《かみ》さんなどで、その外多くは職人のような男であった。
高座には話家が出て饒舌っている。徳三郎という息子が象棋《しょうぎ》をさしに出ていた。夜が更けて帰って、閉出《しめだし》を食った。近所の娘が一人やはり同じように閉出を食っている。娘は息子に話し掛ける。息子がおじの内へ往って留めて貰うより外はないと云うと、娘が一しょに連れて行ってくれろと頼む。息子は聴かずにずんずん行くが、娘は附いて来る。おじは通物《とおりもの》である。通物とは道義心の lax なる人物ということと見える。息子が情人を連れて来たものと速断する。息子が弁解するのを、恥かしいので言を左右に托《たく》しているのだと思う。息子に恋慕している娘は、物怪《もっけ》の幸と思っている。そこで二人はおじに二階へ追い上げられる。夜具は一人前しか無い。解いた帯を、縦に敷布団の真中に置いて、跡から書くので譬喩《ひゆ》が anachronism になるが、樺太《からふと》を両分したようにして、二人は寝る。さて一寐入して目が醒《さ》めて云々《しかじか》というのである。僕の耳には、まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。
「どうです。分かりますかい」
「うむ。大抵分かる」
「大抵分かりゃ沢山だ」
今までしゃべっていた話家が、起《た》って腰を屈《かが》めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り栄《ばえ》も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を攫得《かくとく》するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。
*
同じ年の十月頃、僕は本郷|壱岐坂《いきざか》にあった、独逸《ドイツ》語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の東《あずま》先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に贅沢《ぜいたく》はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで飜訳《ほんやく》なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位|閨門《けいもん》のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。
僕は東先生の内にいる間、性慾上の刺戟《しげき》を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を手繰《たぐ》って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを点《つ》けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思えば跳躍する。嫌だと思えば萎靡《いび》して振わないというのである。下女は耳を真赤にして聴いていた。僕は不愉快を感じて、自分の部屋に帰った。
学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで可笑《おか》しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に上《のぼ》せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの瓦斯《ガス》を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。
『Furz !』
『Was? Bitte, noch einmal !』
『Furz !』
教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。
学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄って見た。ここで始て男色ということを聞いた。僕なんぞと同級で、毎日馬に乗って通って来る蔭小路《かげのこうじ》という少年が、彼等寄宿生達の及ばぬ恋の対象物である。蔭小路は余り課業は好く出来ない。薄赤い頬っぺたがふっくりと膨《ふく》らんでいて、可哀らしい少年であった。その少年という詞が、男色の受身という意味に用いられているのも、僕の為めには新智識であった。僕に帰り掛に寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。二三度寄るまでは、馳走をしてくれて、親切らしい話をしていた。その頃書生の金平糖といった弾豆《はじけまめ》、書生の羊羹《ようかん》といった焼芋などを食わせられた。但しその親切は初から少し粘《ねばり》があるように感じて、嫌であったが、年長者に礼を欠いではならないと思うので、忍んで交際していたのである。そのうちに手を握る。頬摩《ほおずり》をする。うるさくてたまらない。僕には Urning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ這入《はい》って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんな事を言うものじゃない。さあ」
僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪《えんお》と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「うむ」
「そんなら応援して遣る」
隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて跳《おど》り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団|蒸《むし》にして懲《こら》して遣れ」
手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、跳《は》ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が弛《ゆる》む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら敏捷《びんしょう》であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。
その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお父《とう》様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗《な》めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。
*
十三になった。
去年お母様がお国からお出になった。
今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃《や》めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってか
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