また復是の如し、人類もまた復是の如しでは何の役にも立たない。人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬというのである。
金井君はこれを読んで、暫《しばら》く腕組をして考えていた。金井君の長男は今年高等学校を卒業する。仮に自分が息子に教えねばならないとなったら、どう云ったら好かろうと考えた。そして非常にむつかしい事だと思った。具体的に考えて見れば見る程|詞《ことば》を措《お》くに窮する。そこで前に書こうと思っていた、自分の性欲的生活の歴史の事を考えて、金井君は問題の解決を得たように思った。あれを書いて見て、どんなものになるか見よう。書いたものが人に見せられるか、世に公にせられるかより先に、息子に見せられるかということを検して見よう。金井君はこう思って筆を取った。
*
六つの時であった。
中国の或る小さいお大名の御城下にいた。廃藩置県になって、県庁が隣国に置かれることになったので、城下は俄《にわか》に寂しくなった。
お父様は殿様と御一しょに東京に出ていらっしゃる。お母様が、湛ももう大分大きくなったから、学校に遣《や》る前から、少しずつ物を教えて置かねばならないというので、毎朝仮名を教えたり、手習をさせたりして下さる。
お父様は藩の時|徒士《かち》であったが、それでも土塀《どべい》を繞《めぐ》らした門構の家にだけは住んでおられた。門の前はお濠《ほり》で、向うの岸は上《かみ》のお蔵である。
或日お稽古が済むと、お母様は機を織っていらっしゃる。僕は「遊んでまいります」という一声を残して駈《か》け出した。
この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の塀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の側《そば》の臭橘《からたち》に薄緑の芽の吹いているのが見えるばかりである。
西隣に空地がある。石瓦の散らばっている間に、げんげや菫《すみれ》の花が咲いている。僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男の癖に花なんぞを摘んで可笑《おか》しいと云ったことを思い出して、急に身の周囲《まわり》を見廻して花を棄てた。幸《さいわい》に誰も見ていなかった。僕はぼんやりして立っていた。晴れた麗《うらら》かな日であった。お母様の機を織ってお出《いで》なさる音が、ぎいとん、ぎいとんと聞える。
空地を隔てて小原という家がある。主人は亡くなって四十ばかりの後家さんがいるのである。僕はふいとその家へ往く気になって、表口へ廻って駈け込んだ。
草履《ぞうり》を脱ぎ散らして、障子をがらりと開けて飛び込んで見ると、おばさんはどこかの知らない娘と一しょに本を開けて見ていた。娘は赤いものずくめの着物で、髪を島田に結《い》っている。僕は子供ながら、この娘は町の方のものだと思った。おばさんも娘も、ひどく驚いたように顔を上げて僕を見た。二人の顔は真赤であった。僕は子供ながら、二人の様子が当前《あたりまえ》でないのが分って、異様に感じた。見れば開けてある本には、綺麗に彩色がしてある。
「おば様。そりゃあ何の絵本かのう」
僕はつかつかと側へ往《い》った。娘は本を伏せて、おばさんの顔を見て笑った。表紙にも彩色がしてあって、見れば女の大きい顔が書いてあった。
おばさんは娘の伏せた本を引ったくって開けて、僕の前に出して、絵の中の何物かを指ざして、こう云った。
「しずさあ。あんたはこれを何と思いんさるかの」
娘は一層声を高くして笑った。僕は覗いて見たが、人物の姿勢が非常に複雑になっているので、どうもよく分らなかった。
「足じゃろうがの」
おばさんも娘も一しょに大声で笑った。足ではなかったと見える。僕は非道《ひど》く侮辱せられたような心持がした。
「おば様。又来ます」
僕はおばさんの待てというのを聴かずに、走って戸口を出た。
僕は二人の見ていた絵の何物なるかを判断する智識を有せなかった。しかし二人の言語挙動を非道く異様に、しかも不愉快に感じた。そして何故か知らないが、この出来事をお母様に問うことを憚《はばか》った。
*
七つになった。
お父様が東京からお帰になった。僕は藩の学問所の址《あと》に出来た学校に通うことになった。
内から学校へ往くには、門の前のお濠の西のはずれにある木戸を通るのである。木戸の番所の址がまだ元のままになっていて、五十ばかりのじいさんが住んでいる。女房も子供もある。子供は僕と同年位の男の子で、襤褸《ぼろ》を着て、いつも二本棒を垂らしている。その子が僕の通る度に、指を銜《くわ》えて僕を見る。僕は厭悪《えんお》と多少の畏怖《いふ》とを以てこの子を見て通るのであった。
或日木戸を通るとき、いつも外に立っている子が見えなかった。おれはあの子はどうしたかと思いながら、通り過ぎようとした。その時番所址の家の中で、じいさんの声がした。
「こりい。それう持ってわやくをしちゃあいけんちゅうのに」
僕はふいと立ち留って声のする方を見た。じいさんは胡坐《あぐら》をかいて草鞋《わらじ》を作っている。今叱ったのは、子供が藁《わら》を打つ槌《つち》を持ち出そうとしたからである。子供は槌を措《お》いておれの方を見た。じいさんもおれの方を見た。濃い褐色の皺《しわ》の寄った顔で、曲った鼻が高く、頬がこけている。目はぎょろっとしていて、白目の裡《うち》に赤い処や黄いろい処がある。じいさんが僕にこう云った。
「坊様。あんたあお父《とっ》さまとおっ母《か》さまと夜何をするか知っておりんさるかあ。あんたあ寐坊《ねぼう》じゃけえ知りんさるまあ。あははは」
じいさんの笑う顔は実に恐ろしい顔である。子供も一しょになって、顔をくしゃくしゃにして笑うのである。
僕は返事をせずに、逃げるように通り過ぎた。跡にはまだじいさんと子供との笑う声がしていた。
道々じいさんの云った事を考えた。男と女とが夫婦になっていれば、その間に子供が出来るということは知っている。しかしどうして出来るか分らない。じいさんの言った事はその辺に関しているらしい。その辺になんだか秘密が伏在しているらしいと、こんな風に考えた。
秘密が知りたいと思っても、じいさんの言うように、夜目を醒《さ》ましていて、お父様やお母様を監視せようなどとは思わない。じいさんがそんな事を言ったのは、子供の心にも、profanation である、褻※[#「※」は「さんずいに士に買」、15−9]《せつとく》であるというように感ずる。お社の御簾《みす》の中へ土足で踏み込めといわれたと同じように感ずる。そしてそんな事を言ったじいさんが非道く憎いのである。
こんな考はその後木戸を通る度に起った。しかし子供の意識は断えず応接に遑《いとま》あらざる程の新事実に襲われているのであるから、長く続けてそんな事を考えていることは出来ない。内に帰っている時なんぞは、大抵そんな事は忘れているのであった。
*
十《とお》になった。
お父様が少しずつ英語を教えて下さることになった。
内を東京へ引き越すようになるかも知れないという話がおりおりある。そんな話のある時、聞耳を立てると、お母様が余所《よそ》の人に言うなと仰《おっし》ゃる。お父様は、若し東京へでも行くようになると、余計な物は持って行かれないから、物を選《え》り分けねばならないというので、よく蔵にはいって何かしていらっしゃる。蔵は下の方には米がはいっていて、二階に長持や何かが入れてあった。お父様のこのお為事《しごと》も、客でもあると、すぐに止《や》めておしまいになる。
何故人に言っては悪いのかと思って、お母様に問うて見た。お母様は、東京へは皆行きたがっているから、人に言うのは好くないと仰ゃった。
或日お父様のお留守に蔵の二階へ上って見た。蓋《ふた》を開けたままにしてある長持がある。色々な物が取り散らしてある。もっと小さい時に、いつも床の間に飾ってあった鎧櫃《よろいびつ》が、どうしたわけか、二階の真中に引き出してあった。甲冑《かっちゅう》というものは、何でも五年も前に、長州征伐があった時から、信用が地に墜《お》ちたのであった。お父様が古かね屋にでも遣《や》っておしまいなさるお積で、疾《と》うから蔵にしまってあったのを、引き出してお置になったのかも知れない。
僕は何の気なしに鎧櫃の蓋を開けた。そうすると鎧の上に本が一冊載っている。開けて見ると、綺麗に彩色のしてある絵である。そしてその絵にかいてある男と女とが異様な姿勢をしている。僕は、もっと小さい時に、小原のおばさんの内で見た本と同じ種類の本だと思った。しかしもう大分それを見せられた時よりは智識《ちしき》が加わっているのだから、その時よりは熟《よ》く分った。Michelangelo の壁画の人物も、大胆な遠近法を使ってかいてあるとはいうが、こんな絵の人物には、それとは違って、随分無理な姿勢が取らせてあるのだから、小さい子供に、どこに手があるやら足があるやら弁《わきま》えにくかったのも無理は無い。今度は手も足も好く分った。そして兼て知りたく思った秘密はこれだと思った。
僕は面白く思って、幾枚かの絵を繰り返して見た。しかしここに注意して置かなければならない事がある。それはこういう人間の振舞が、人間の欲望に関係を有しているということは、その時少しも分らなかった。Schopenhauer はこういう事を言っている。人間は容易に醒《さ》めた意識を以て子を得ようと謀《はか》るものではない。自分の胤《たね》の繁殖に手を着けるものではない。そこで自然がこれに愉快を伴わせる。これを欲望にする。この愉快、この欲望は、自然が人間に繁殖を謀《はか》らせる詭謀《きぼう》である、餌《え》である。こんな餌を与えないでも、繁殖に差支《さしつかえ》のないのは、下等な生物である。醒めた意識を有せない生物であると云っている。僕には、この絵にあるような人間の振舞に、そんな餌が伴わせてあるということだけは、少しも分らなかったのである。僕の面白がって、繰り返して絵を見たのは、只まだ知らないものを知るのが面白かったに過ぎない。Neugierde に過ぎない。Wissbegierde に過ぎない。小原のおばさんに見せて貰っていた、島田|髷《まげ》の娘とは、全く別様な眼で見たのである。
さて繰り返して見ているうちに、疑惑を生じた。それは或る体《からだ》の部分が馬鹿に大きくかいてあることである。もっと小さい時に、足でないものを足だと思ったのも、無理は無いのである。一体こういう画はどこの国にもあるが、或る体の部分をこんなに大きくかくということだけは、世界に類が無い。これは日本の浮世絵師の発明なのである。昔希臘の芸術家は、神の形を製作するのに、額を大きくして、顔の下の方を小さくした。額は霊魂の舎《やど》るところだから、それを引き立たせる為めに大きくした。顔の下の方、口のところ、咀嚼《そしゃく》に使う上下の顎《あご》に歯なんぞは、卑しい体の部であるから小さくした。若しこっちの方を大きくすると、段々猿に似て来るのである。Camper の面角《めんかく》が段々小さくなって来るのである。それから腹の割合に胸を大きくした。腹が顎や歯と同じ関係を有しているということは、別段に説明することを要せない。飲食よりは呼吸の方が、上等な作用である。その上昔の人は胸に、詳しく言えば心の臓に、血の循行《めぐり》ではなくて、精神の作用を持たせていたのである。その額や胸を大きくしたと同じ道理で、日本の浮世絵師は、こんな画をかく時に、或る体の部分を大きくしたのである。それがどうも僕には分らなかった。
肉|蒲団《ぶとん》という、支那人の書いた、けしからん猥褻《わいせつ》な本がある。お負に支那人の癖で、その物語の組立に善悪の応報をこじつけている。実に馬鹿げた本である。その本に未央生《みおうせい》という主人公が、自分の或る体の部分が小さいようだというので、人の小便するのを覗《のぞ》いて歩くことが書いてある。僕もその頃人が往来ばたで小便をしていると
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