前にきちんとすわって、橘飩の栗が一つ一つ児島の美しい唇の奥に隠れて行くのを眺めていた。
 僕は小幾が為めに、児島のなるたけ多くの橘飩を、なるたけゆっくり食わんことを祈って、黙って先へ帰った。
 後に聞けば、小幾は下谷第一の美人であったそうだ。そして児島は只この美人の※[#「敬」の下に「手」、73−14]《さ》げ来った橘飩を食ったばかりであった。小幾は今某政党の名高い政治家の令夫人である。

      *

 二十《はたち》になった。
 新しい学士仲間は追々口を捜して、多くは地方へ教師になりに行く。僕は卒業したときの席順が好いので、官費で洋行させられることになりそうな噂がある。しかしそれがなかなか極まらないので、お父様は心配してお出《いで》なさる。僕は平気で小菅の官舎の四畳半に寝転《ねころ》んで、本を見ている。
 遊びに来るものもめったに無い。古賀は某省の参事官になって、女房を持って、女房の里に同居して、そこから役所へ通っている。児島はそれより前に、大阪の或会社の事務員になって、東京を立った。それを送りに新橋へ行ったとき、古賀が僕に※[#「※」は「口に耳」、74−7]語《ささや》いだ。
前へ 次へ
全130ページ中96ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング