うことを要求するのは無理かも知れないが、訣の分らない奴が附いていて離れないというものは、人生の一大不幸だなあ。左様なら」
 裔一はふいと帰って行った。
 僕はあっ気に取られて跡を見送った。戸口に掛けてある簾《すだれ》を透して、冠木門《かぶきもん》を出て行く友の姿が見える。白地の浴衣《ゆかた》に麦稈帽《むぎわらぼう》を被った裔一は、午《ひる》過の日のかっかっと照っている、かなめ垣の道に黒い、短い影を落しながら、遠ざかって行く。
 裔一は置土産に僕を諷諫《ふうかん》したのである。僕は一寸腹が立った。何もその位な事を人に聞かなくても好いと思う。それも人による。万事に掛けて自分よりは鈍いように思っていた裔一には、出過ぎた話だと思う。その上お蝶が何だ。こっちはまるで女とも何とも思っていないのではないか。人を識《し》らないのだ。寃《えん》もまた甚《はなはだ》しいと思ったのである。
 机に向いて読み掛けていた本を開ける。どうも裔一の云ったことが気になる。僕はお蝶を何とも思ってはいない。しかしお蝶はどうだろう。僕とお蝶とは殆ど話というものをしないから、お蝶が何と云ったというような記憶は無い。何か記憶に
前へ 次へ
全130ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング