、毎朝仮名を教えたり、手習をさせたりして下さる。
お父様は藩の時|徒士《かち》であったが、それでも土塀《どべい》を繞《めぐ》らした門構の家にだけは住んでおられた。門の前はお濠《ほり》で、向うの岸は上《かみ》のお蔵である。
或日お稽古が済むと、お母様は機を織っていらっしゃる。僕は「遊んでまいります」という一声を残して駈《か》け出した。
この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の塀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の側《そば》の臭橘《からたち》に薄緑の芽の吹いているのが見えるばかりである。
西隣に空地がある。石瓦の散らばっている間に、げんげや菫《すみれ》の花が咲いている。僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男の癖に花なんぞを摘んで可笑《おか》しいと云ったことを思い出して、急に身の周囲《まわり》を見廻して花を棄てた。幸《さいわい》に誰も見ていなかった。僕はぼんやりして立っていた。晴れた麗《うらら》かな日であった。お母様の機を織ってお出《いで》なさる音が、ぎいとん、ぎいとんと聞える。
空地を隔てて小原という家がある。主人は亡くなっ
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