に出ろと云う。鰐口なんぞは、長い間同じ部屋にいても、一しょに散歩に出ようと云ったことはない。とにかく附いて出て見ようと思って、承諾した。
 夏の初の気持の好い夕かたである。神田の通りを歩く。古本屋の前に来ると、僕は足を留《と》めて覗《のぞ》く。古賀は一しょに覗く。その頃は、日本人の詩集なんぞは一冊五銭位で買われたものだ。柳原の取附《とっつき》に広場がある。ここに大きな傘を開いて立てて、その下で十二三位な綺麗な女の子にかっぽれを踊らせている。僕は Victor Hugo の Notre Dame を読んだとき、Emeraude とかいう宝石のような名の附いた小娘の事を書いてあるのを見て、この女の子を思出して、あの傘の下でかっぽれを踊ったような奴だろうと思った。古賀はこう云った。
「何の子だか知らないが、非道い目に合わせているなあ」
「もっと非道いのは支那人だろう。赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にしたという話があるが、そんな事もし兼ねない」
「どうしてそんな話を知っている」
「虞初新誌にある」
「妙なものを読んでいるなあ。面白い小僧だ」
 こんな風に古賀は面白い小僧だを連発する。柳原を両国の方へ歩いているうちに、古賀は蒲焼《かばやき》の行灯《あんどん》の出ている家の前で足を留めた。
「君は鰻《うなぎ》を食うか」
「食う」
 古賀は鰻屋へ這入った。大串を誂える。酒が出ると、ひとりで面白そうに飲んでいる。そのうち咽《のど》に痰《たん》がひっ掛かる。かっと云うと思うと、縁の外の小庭を囲んでいる竹垣を越して、痰が向うの路地に飛ぶ。僕はあっけに取られて見ている。鰻が出る。僕はお父様に連れられて鰻屋へ一度行って、鰻飯を食ったことしか無い。古賀がいくらだけ焼けと金で誂えるのに先ず驚いたのであったが、その食いようを見て更に驚いた。串を抜く。大きな切《きれ》を箸で折り曲げて一口に頬張る。僕は口には出さないが、面白い奴だと思って見ていたのである。
 その日は素直に寄宿舎に帰った。寝るとき、明日の朝は起してくれえ、頼むぞと云って、ぐうぐう寝てしまった。
 朝は四時頃から外があかるくなる。僕は六時に起きる。顔を洗って来て本を見ている。七時に賄《まかない》の拍子木が鳴る。古賀を起す。古賀は眠むそうに目を開《あ》く。
「何時だ」
「七時だ」
「まだ早い」
 古賀はくるりと寝返りをして、ぐうぐう寝る。僕は飯を食って来る。三十分になる。八時には日課が始まるのである。古賀を起す。
「何時だ」
「七時三十分だ」
「まだ早い」
 十五分前になる。僕は前晩に時間表を見て揃《そろ》えて置いたノオトブックとインクとを持って出掛けて、古賀を起す。
「何時だ」
「十五分前だ」
 古賀は黙って跳《は》ね起きる。紙と手拭とを持って飛び出す。これから雪隠《せっちん》に往って、顔を洗って、飯を食って、教場へ駈け附けるのである。
 古賀|鵠介《こくすけ》の平常の生活はこんな風である。折々古賀の友達で、児島十二郎というのが遊びに来る。その頃絵草紙屋に吊るしてあった、錦絵の源氏の君のような顔をしている男である。体じゅうが青み掛かって白い。綽号《あだな》を青大将というのだが、それを言うと怒る。尤《もっと》もこの名は、児島の体の或る部分を浴場《ふろ》で見て附けた名だそうだから、怒るのも無理は無い。児島は酒量がない。言語も挙動も貴公子らしい。名高い洋学者で、勅任官になっている人の弟である。十二人目の子なので、十二郎というのだそうだ。
 どうして古賀と児島とが親しくしているだろうと、僕は先ず疑問を起した。さて段々観察していると、触接点がある。
 古賀は父親をひどく大切にしている。その癖父親は鵠介の弟の神童じみたのが夭折《ようせつ》したのを惜んで、鵠介を不肖の子として扱っているらしい。鵠介は自分が不肖の子として扱われれば扱われるだけ、父親の失った子の穴填《あなうめ》をして、父親に安心させねばならないように思うのである。児島は父親が亡くなって母親がある。母親は十何人という子を一人で生んだのである。これも十三人目の十三郎というのが才子で、その方が可哀がられているらしい。しかし十三郎は才子である代りに、稍《や》や放縦で、或る新聞縦覧所の女に思われた為めに騒動が起って新聞の続物に出た。女は元と縦覧所を出している男の雇女で、年の三十も違う主人に、脅迫せられて身を任せて、妾《めかけ》の様になっていた。それが十三郎を慕うので、主人が嫉妬から女を虐遇する。女は十三郎に泣き附く。その十三郎が勅任官の家の若殿だから、新聞の好材料になったのである。その為めに、十三郎は或る立派な家に養子に貰われていたのが破談になる。母親は十三郎の為めに心痛する。十二郎はその母親の心を慰めようと、熱心に努めているのである。
 こん
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