革に月」、50−4]《つか》を握らざることを得なかった。
 然るに淘汰の跡で、寄宿舎の部屋割が極まって見ると、僕は古賀と同室になっていた。鰐口は顔に嘲弄《ちょうろう》の色を浮べて、こう云った。
「さあ。あんたあ古賀さあの処へ往って可哀がって貰いんされえか。あはははは」
 例のとおりお父様の声色《こわいろ》である。この男は少しも僕を保護してはくれなんだ。しかし僕は構わぬのが難有《ありがた》かった。彼の cynic な言語挙動は始終僕に不愉快を感ぜしめるが、とにかく彼も一種の奇峭《きしょう》な性格である。同級の詩人が彼に贈った詩の結句は、竹窓夜静にして韓非《かんぴ》を読むというのであった。人が彼を畏《おそ》れ憚る。それが間接に、僕の為めには保護になっていたのである。
 僕はこの間接の保護を失わねばならない。そして頗る危険なる古賀の室へ引き越さねばならない。僕は覚えず慄然《りつぜん》とした。
 僕は獅子の窟《いわや》に這入るような積《つもり》で引き越して行った。埴生が、君の目は基線を上にした三角だと云ったが、その倒三角形の目がいよいよ稜《かど》立っていたであろう。古賀は本も何も載せてない破机《やぶれづくえ》の前に、鼠色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐《あぐら》をかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に、小さい、真円《まんまる》な目には、喜の色が溢《あふ》れている。
「僕をこわがって逃げ廻っていた癖に、とうとう僕の処へ来たな。はははは」
 彼は破顔一笑した。彼の顔はおどけたような、威厳のあるような、妙な顔である。どうも悪い奴らしくはない。
「割り当てられたから為方《しかた》がない」
 随分無愛想な返事である。
「君は僕を逸見と同じように思っているな。僕はそんな人間じゃあない」
 僕は黙って自分の席を整頓《せいとん》し始めた。僕は子供の時から物を散らかして置くということが大嫌である。学校にはいってからは、学科用のものと外のものとを選《よ》り分けてきちんとして置く。この頃になっては、僕のノオトブックの数は大変なもので、丁度外の人の倍はある。その訳は一学科毎に二冊あって、しかもそれを皆教場に持って出て、重要な事と、只参考になると思う事とを、聴きながら選り分けて、開いて畳《かさ》ねてある二冊へ、ペンで書く。その代り、外の生徒のように、寄宿舎に帰ってから清書をすることはない。寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘拉甸《ギリシャラテン》の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。僕はノオトブックと参考書とを同じ順序にシェルフに立てた。黒と赤とのインキを瓶のひっくり反《かえ》らない用心に、菓子箱のあいたのに、並べて入れたのに、ペンを添えて、机の向うの方に置いた。大きい吸取紙を広げて、机の前の方に置いた。その左に厚い表紙の附いている手帖を二冊|累《かさ》ねて置いた。一冊は日記で、寝る前に日日の記事をきちんと締め切るのである。一冊は学科に関係のない事件の備忘録で、表題には生利《なまぎき》にも紺珠《かんじゅ》という二字がペンで篆書《てんしょ》に書いてある。それから机の下に忍ばせたのは、貞丈《ていじょう》雑記が十冊ばかりであった。その頃の貸本屋の持っていた最も高尚なものは、こんな風な随筆類で、僕のように馬琴京伝の小説を卒業すると、随筆読になるより外ないのである。こんな物の中から何かしら見出《みいだ》しては、例の紺珠に書き留めるのである。
 古賀はにやりにやり笑って僕のする事を見ていたが、貞丈雑記を机の下に忍ばせるのを見て、こう云った。
「それは何の本だ」
「貞丈雑記だ」
「何が書いてある」
「この辺には装束の事が書いてある」
「そんな物を読んで何にする」
「何にもするのではない」
「それではつまらんじゃないか」
「そんなら、僕なんぞがこんな学校に這入って学問をするのもつまらんじゃないか。官員になる為めとか、教師になる為めとかいうわけでもあるまい」
「君は卒業しても、官員や教師にはならんのかい」
「そりゃあ、なるかも知れない。しかしそれになる為めに学問をするのではない」
「それでは物を知る為めに学問をする、つまり学問をする為めに学問をするというのだな」
「うむ。まあ、そうだ」
「ふむ。君は面白い小僧だ」
 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振ってい過ぎる。僕は例の倒三角形の目で相手を睨《にら》んだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。
 その日の夕かたであった。古賀が一しょに散歩
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